昭和四年
神宮式年

御 遷 宮 奉 仕 記                                                                                                        
昭和四年十一月三日、稜威會本部に於ける講話を筆録し、敬み畏みて、
川面先生常立精靈の大前に捧げまつる。

多 田 雄 三


茲に、
明治節の佳辰に當り、社團法人稜威會、財團法人照國會、両會記念の祭典を執行はれ、同慶窮りなき次第であります。
此の芽出度き席上に於て、
大日本世界教常立大神、別けても、川面先生の常立精靈の御許しを乞ひまつりて、
畏くも
神宮の式年御遷宮に關する御話を申上ぐることは、私の深く光榮とするところであります。
神宮と其の式年遷宮とに就いては、既に世に公にされたる著書に相當に有り、且又、當度の御遷宮にあたりては、各新聞紙、雑誌の類に、随分詳細なる報道、乃至説明を載せ、尚、ラヂオに依る講演も、九月半より連日に亘りて行はれ、其上當日には、畏くも、祭典の御模様を可なり詳密に放送されまして、或場面の如きは活動寫眞として公開されし程の事なれば、私が今此処に改めて申上るまでも無く、同人諸賢に於ては、夙に御承知と申すよりは、私なぞよりはより以上詳しく御研究にもなられ、御知悉の事と思ひますので、先日本會より、御遷宮に關する講話をせよとの御交渉に接したる際には、少からず躊躇されたのでありました。
故に神宮と其の式年御遷宮との総體的力面に關しては、今更私の御話申上る餘地は無いものと祕に信じるので、今は主として、私自身の直接に關係したる事實を中心に、其の一端を御話することと致しませう。
さて數へて見ますと、今から六年前の事であります。
奈良縣の神職會が主催として、夏の禊を、大和の龍田川、彼の紅燃ゆる紅葉の名所である龍田の川の川上に執行はれたことがあります。
その時、川面先生の御伴をして参ることが出來ました。
禊中に
『皇大神宮御料の御物を作りたい』との願ひを發したのです。
そこで、禊を終えて後、直に、神宮に参拝致しました。
それは、大正十三年の七月十二日の事であります。
然るに不思議にもその翌年、私は造神宮使廳に奉職することになったのです。
造神宮使廳と申しますと、今の世の人には、甚耳遠い名称でありますが、これは遠い歴史の有ることで、内務大臣の監督に属し、『神宮造營及神寶装束調進の事を掌る』といふことになって居ります。
其所で私は、御装束、神寳の圖案と製作の監督とを致すことになりました。
中古は、神宮御造營の為に、特に造宮使と、營造神寶竝装束使といふ二つの職制を設けられて居りましたが、其の以前、
垂仁天皇の御代、皇大神宮が神路山の麓、五十鈴川の川上に御鎮座になられ、雄略天皇の御代、豊受大神宮が神倉山の麓、山田の原に齋き祀られてから、天武天皇の御代までは、別にかかる区別は無く、御造營事業は専ら神宮司に於て執行ひ、その費用の如きも、神宮所属の神戸から徴収せられた神税を以てしたので、未だ特別の官制を設くるには至らなかったのであります。   
ところが、天武天皇の畏き思召に依り、式年造替の制が確立し、御造營に關する機關も次第に備るに至ったのであります。 
併しそれ等に關する制度の詳しき事は、種々公刊の書籍が有りますから、今は、極省略して唯一言に申しますならば、
造宮使なるものは、宮殿の御造營を主とするので、今日の詞で所謂、建築と土木とに關する工事一切を掌るのであり、營造神寳竝装束使とは、御装束神寳を調進することを職とするのであります。
茲に、御装束、神寳の事を申します。
御装束とは、御殿内外を装飾し奉る御物を初めとして、御神服、御調度品等を申し上ぐるので、其の品目の一部を挙ぐれば、御壁代、御蚊屋天井、御幌、御士代の如き御飾りに属するもの、御衣、御袴、御裳、御帯、御鞆、御履の如き御召料、亦、御髪道具、御枕、御被の如き品々であります。
神寳とは、大御神の最も貴重となさせらるる御寳で、殿内に奉安せらるる御物であります。
例へば、御弓、御矢、御鞆、御鉾、御楯、御太刀の類から、御機織道具であるところの御麻笥、御?、御裃、御?、亦、御琴とか御馬具の如き御品も含まれて居ります。
此の御装束と神寳とを調達する役所、營造神寳竝装束使と申しますのは、延喜大神宮式に依りますと、之を、太政官内に置き、神祇官の西院の内に工作所を設け、其の道道に練達した工匠を集めて、明衣を着け潔齋して調製に當らしめたとなって居ります。つまり、身を清め神に仕ふる特別の服装をして、謹み畏みつつ御製り申したのであります。
斯くして愈々、御物が出來上りますれば、神寳使を差遣して、之を神宮に奉送せられたので、この際特に、太政官符を大神宮司に下して御料の品目数量竝に製作仕様の梗概を記して、奉送の旨を達せられたので、これを送官符と申しました。
明治以後は御装束竝神寳式目と称し、大體この送官符の様式に基いて、造神宮使廳より神宮へ送らるるので、之を送文とも云ひます。
讀合せの儀に際し、一々對照して寳物の點検をするのであります。
當度の御造營に際しても、勿論、御装束と神寳とも、式の如く新に御調進申上げたのであります。
本來、これ等は、式年毎に前の本様通り新調するのが規定でありますが、年漸く久しくして時運の隆替変變遷があり、その本様を失ふものが少くなかったのは慨歎に耐へない次第でありましたが、明治二十二年度、同四十二年度と、漸次本に復するの機運に向ひました。
然し、如何にせん、未だ調査も進まず、遺憾の点が多かったのです。
當度は、其の缺けたるを補ひ、完壁を期する方針を立て、大正九年以來古儀の調査を始めて、文献の攻究と實地の資料集蒐とを進めたる結果、故實の正しきに依り、又、品種の相違を訂し、員數の錯誤を改めて、古制に復することが出來たのです。
復古と申しますが、多くの現存の御品があるのではありませんから、古の様式を考へ、特に、形態、文様、配色の如きは、其の時代の風格を今に復活せしむべく攻究するの要があるので、容易の事でありません。
御調製にあたりては、古の如く太政官内に於てするといふが如きではありませんが、東京、京都、大阪、愛知、滋賀、奈良、秋田等の各地に亘り、それぞれ、當代一流の専門家に下命し、材料の撰擇、作業の良否、一々廳員の指揮監督の下に、極めて清浄に執行はれたのは、信に喜ぶべき至りであります。
但し、専門家に下命して製作されたのですが、その様式は元より、極めて微細の點までも、設計圖案に基いて、全體の上に整然たる統一を保たせねばならないので、その監督には非常な苦心があるのです。
世間では、誰某に下命したと云へば、総べて其の者が製作したかの如く思ふかも知れませぬが、中々そんなものではありません。
第一、美術工藝品に最も大切な、設計と圖案とは、既に極めて細密に作られたる上に、時として、その技工の上までも手を下さねばならないので、殆んど、監督者が作ったと云っても宜い様な場合も有ったのです。
斯様にして、全部出來上ったのは、今年九月二十七日の夜でありました。
川原の大祓を三日の前にして漸く完成を見るに至ったので、當事者としては、一通りの心配では無かったのですが、無事に出來上ったのは、全く大御神の御心と、深く感謝する次第であります。
斯くして、完成の御装束、神寳は、此れを造神宮使廳より神宮使廳に引渡し、後は、御祭儀のみとなったのであります。

神宮の御造營と云へば、御祭儀に始り、御祭儀に終るのです。   
其の着手に先ち、最初に、山口祭が行はれました。
それは大正九年五月二日であります。
祀り、伐木の安全を祈る御祭儀であります。
古來の神宮御杣山は、内宮は神路山で、外宮は高倉山でありましたので、内宮は其の山口に當る岩井田山の岩社の森の上に於て、外宮は高倉山の北の麓に當る土宮の前に於て祭る例で、後世御杣山が他に移ってもやはり此の場所ですることになって居ります。
此の御祭儀の初に饗膳があり、其の後に祭典を行ふのです。
御造營には、最初と最後との大祭に饗膳の儀が有ります。
最後とは杵築祭で、此の時も亦、饗膳の後に祭典を行ふのであります。
山口祭と同日の夜には、木本祭が行はれます。
木本祭とは、御用材中、別けても神聖な、正殿の心御柱の御料木を採る為の御祭儀で、木の本の神を祭るのです。
此の御科木のみは、御杣山の移轉に關係無く、いつも宮域内から選び伐るので、御祭もまた其の木の本に於て行はれます。斯くして其の度度の心御柱木は定まるのであります。
地上に木と云ふ木は澤山にあります。山に野に繁りに茂って居ります。が、國の鎮め、世界鎮護の大宮柱と齋ひ祭らるる神木が幾本ありませうか。
二十年に一本。
二十年に一本の檜より外には無いのであります。
それは、何時の世に、誰人が、心ありて植ゑ置かれたのでありませうか。
如何なる神の御心によりて生ひ立ちしものでありませうか。 
思へば感歎無きこと得ません。
  何時の世に誰かは植ゑて杣山の 宮木の今日に逢ひにけらしも。
同じ年の六月三日には、御杣山木本祭があり、御樋代木を伐採するに方りて行はれたのであります。
これは、當度に於て、心御柱木以外の総べての御用材を採りましたところの木曽の御料林で行はれたのであります。
大正九年四月二十六日に、信濃國西筑摩郡駒ヶ根村大字小川御料林と、美濃國恵那郡加子母村字出ノ小路御料林とを以て御杣山に充つる旨、御治定遊ばされたのでありました。

  さく鈴の五十鈴の宮の宮柱 木曾のみ山の檜伐る音。


山口祭、木本祭、御杣山木本祭等に次いで、大正十一年四月十二日と十三日とには、御木曳初式が有り、それより十日の後には、木造始祭。
大正十三年五月二十五日には、鎮地祭。
昭和二年四月には、御樋代木奉曳式。
その翌三年には、假御樋代木伐採式。立柱祭。御形祭。上棟祭。檐付祭。甍祭の順序で、大正九年より昭和三年まで、次次に御祭儀が行はれ、今年の九月には、御戸祭が十三日と十五日とに行はれ、十七日には、内宮の御船代祭。同く十九日には、外宮の御船代祭がありまして、愈々造營關係の祭儀をば完了し、九月二十四日に行はれる洗清の行事前に、造神宮使廳より、完成した建物を神宮司廳に引継いたのであられました。
神宮司廳では、造神宮使廳より新御殿を受けて、先づ、洗清の式を行ひ、次に心御柱奉建の儀があるのです。
これは舊くは立柱祭と同時に行はれたやうでありますが、建久元年遷宮記には、『奉立心御柱』とあるのを見ると、其の頃には別々に行はれたものと思はれるのです。
此の御祭儀は申すまでも無く、古來より極めて神祕の行事とされ、夜中、正殿の床下に五色の幣を立て、忌物、神饌を奉奠して諸神を祭り、齋柱を建て奉るのであります。
九月二十五日に内宮、二十七日には外宮に於て行はれました。
それから、二十八日は内宮、二十九日は外宮の杵築祭であります。
杵築祭は前申しました様に、饗膳の儀があって後、御祭典を行はれるので、其の祝祭には、大宮司以下、白布の明衣を懸け、白杖を以て、新御殿の御柱根を築き固めながら、古謡を謳ふのであります。

其の謡は、

畏しや五十鈴の宮の杵築してけり杵築してけり 國ぞ榮ゆる郡ぞ榮ゆる
萬代までに萬代までに
天照す大宮處かくしつつ仕へまつらむかくしつつ仕へまつらむ
萬代までに萬代までに
度會の豊受の宮の杵築して宮ぞ榮ゆる國ぞ榮ゆる
萬代までに萬代までに

と申すので、如何にも、神宮の隆昌と、國家萬民の繁榮とが、相須って萬代不易なることを言壽いだ、芽出度き歌と申すべきであります。
斯く杵築して後、祭員は瑞垣御門の前に列立し、袖を飜して倭舞を舞ふのであります。
神壽ぎに壽ぎまつる様、想像するだに、神々しさの極みで、此時の斯心、天窟屋戸の開けて、八百萬神の與に笑ぐ御聲さへも聞ゆるやうではありませんか。
愈々、御遷御の前日といふ十月一日午前八時には、後鎮祭があって、御造營工事に關する祭儀は、全く了りましたのです。
茲で、特に注意すべきことは、以上の諸祭儀中にて、とり別け重き御儀の日時に就いては、其の時々に、御治定を仰ぎ奉る次第であり、また御装束、神寳は、天覧遊ばされますので、御造營工事の進渉は、常に、御叡念深くあらせらるる處と、漏れ承るだに畏き極みであります。
年を定めて、神代ながらの御神殿を仕へ奉り、朝に、夕に、皇御祖の神を齋き奉りて、始に反り本に報ゆる大孝をのべさせ給ふ、天津日嗣の天皇の朝日の御旗の下には、必ずや、世界平和の神國、楽園を現出せしめねば止まざるべきを確信せらるるのであります。
さて、後鎮祭がすむと直に、御装束竝神寳讀合せの御儀が行はれます。
即ち、御装束竝に御神寳を、造神宮使廳から神宮司廳に引継ぐにあたりて讀合すのであります。
同日の午後四時には、川原の大祓が行はれます。
川原大祓の奉仕員は、先づ齋館に参りて潔齋をします。
即ち、身體を洗ひ清むるのです。
齋館に在る間は、一切、他より持ち入れし飲食物を摂ることは出來ません。
勿論、茶、煙草、酒の如き嗜好品は有りません。
潔齋して、身に着くる物は、総べて、御遷宮の為に新しく調製した装束で、衣冠の上に明衣を着けます。
特に重き役儀に當る祭員は、束帯に明衣を着け、木綿鬘して、木綿襁を掛けます。
かくて、祭主の宮殿下をはじめ大宮司、少宮司、禰宜、権禰宜、宮掌、宮掌補より伶人に至るまで、遷御に奉仕すベき総員は百六十餘名で、悉く齋館の庭に参集します。
しかも各員は遷御奉仕に必要の品物を悉く持つので、川原の大祓に臨まぬものは、遷御に仕へ奉ることを許されないのであります。
総員は参進して、御裳濯川を背に、川原祓所に列立しますと、其所には既に、假御樋代、假御船代と、御装束、御神寳の辛櫃とが舁き居ゑられてあるので、直に、宮掌の一員は、祓詞を奏します。
神宮の祝詞はすべて黙誦であります。
黙誦といふ詞は或は當らぬかも知れませんが、兎に角、傍に居っても聞き取れぬ程度に讀みまつるのです。
讀み了って大麻を執り、他の一員は御塩を執り、假御樋代以下と諸員とを、順次に清め畢りて、一員は列に復り、一員は更に進みて祝文を奏し、終りに一拜し、拍手すること二。諸員は蹲踞のまま之に應ずるのです。
祓主は祝文を奏し終りて列に復ります。
この蹲踞の拜と申すのは、敷設無き場合にするのであります。
祓終れば、権禰宜以下、假御樋代、假御船代、及御装束、神寳の辛櫃に副従して参進し、遷御の御物は、本殿の御床下に安じ、其の餘の御物は、新殿の御床下に置かれます。
矗々として桙杉高き神域には、漸く、夕靄が棚曳いて居ります中を、黒袍に白き明衣を着けて、木綿鬘せられたる祭主の宮殿下に、續いて、黒袍に明衣、木綿鬘、木綿襁せる大宮司と少宮司、赤袍の禰宜、緑衣の権禰宜、宮掌、宮掌補、伶人等は、次第に参進して、正宮中重の版に着き、奉拜八度拍手両端の拝禮を行ひますのです。
この八度拜と申すは、神宮特殊の作法とされて居ります。
八拜し畢りて、諸員は、西御門より出で、荒祭宮を遙拜して後、各々退下。
これにて、川原大祓を終り、その夜は、齋館に参籠。
明くれば、愈々、御遷御の當日であります。
風起潔斎。
空は明かきが如く、曇れるが如く、霽れそうで霽れず。漸くにして、全く宿雨模様となりました。
その間にも、時刻は次第に薄って來る、けれども雨は降り増るのみであります。
そこで、濡るるものと思ひ、衣冠を着けて、齋庭に出たのは、夕靄罩めし五時五十分でありました。
茲に、申して置かなければならぬのは、此の日、私達の参籠中に、御飾の儀の行はれた事であります。
御飾と申しますのは、新しき御殿の内外に、昨日川原の大祓に祓ひ清めし御装束の品品を以て、御装飾申上ぐるのであります。
其の御品は、すべて、白き絹と麻とでありまして、先づ禰宜が御幌を懸け、御壁代を着け、又、御蚊屋天井の御飾をして、次に、大宮司、少宮司と禰宜とにて御装束を奉仕し、祭主の宮殿下之を奉檢せらるるのであります。
斯くして、御殿内外の御飾り付けを完備さするのですが、特に注意すべきことは、此の御飾りの儀が、素木の御殿の内外に、総べて、白の織物で仕へ奉るといふ點であります。
他の宗教的装束なるものを見ますと、いづれも好んで、きらびやかなる物を用ひ、青、黄、赤、紫、緑と、色とりどりに荘嚴にするのであります。
佛教各派の寺院であらうと、耶蘇各派の教會であらうと、道教、回教、其の他、世界各地に行はれ來ったところの宗教が、皆悉く、昔から今に至るまで、出來得る限りの複雑を求めて居ります。
然るに、ひとり、御國の皇大神の宮殿は、其の建て初められし昔から此の一色を以て奉仕し來ったのであります。
人或は、此の装飾を見て、直に、簡單なりとし、俄に、幼稚なるものなりなぞと断定し、若くは文化未開の遺風であるなぞと、批評し去るが如きことがあるならば、其は甚しき僻見であって、其の者は、寧ろ、無明悩乱の迷兒とも云ふべきである。 
凡そ、幼稚なる者程、野蛮なる者程、五色八色取混ぜて、之を喜ぶものであることは、小兒の喜ぶ色彩が、強烈なる赤色に始り、乃至、今日文化發達せざる避地の土人が、濃厚なる配色にあらざれば満足せざるが如きを見ても知らるべきである。
之に反して、一見簡單なるが如き、神宮の御装飾こそは、あらゆる色彩、天地萬象の色彩を総合したる、色彩以上の色彩にして、萬色を包含して、光明の一色に帰したる、装飾以上の装飾であります。
眞に、装飾を超越したる、神の装飾と云ふべきものが、此の外に在りませうか。
大宇宙を以て、直に装飾とすることが不可能事であるとするならば、至高至上なる装飾は、當に、此の神宮の御飾であるべきと、畏くも拜察し奉るのであります。
然るに、世には又、神宮の素木造りにして、茅葺なるを拝みまつりて、御質素を旨とせらるる思召であるなぞと申し上ぐるものがあります。が、其れは當りません。
明治天皇も、『神宮の事は、及ぶ限り鄭重にせよ』との畏き御詔勅を下されましたる如く、御造営の材料を拜し奉りましても、御垣内に於ては、総べて、無節の檜であって、中にも、御扉材の如きは、年輪八百餘を數ふる大樹の一枚材を用ひられて居ります。
決して、單に、質素に遊ばすとか、簡單になさるるとか申す御意味合では無く、要は、神代のままの御殿を營み奉るにあるので、神の國の神の祭り、神の政事を執り行ひ、天壌無窮の御神勅を實現させ給ふ、畏き大御心に外ならざる御儀と、祕かに拜察し奉るのであります。


斎館の庭上に列立し居る程に、白張の打つ合圖の第三鼓は響き渡りました。
勅使以下の参進があり。次に
祭主以下の参進となりました。
雨中のこととて、五丈殿にて、大麻と御塩との行事がありましたのです。
朝來の雨は依然として止みません上に、漸く暮れかかって來たので、邉りは模糊として薄暗くなりかかった中に、庭燎が神神しく次第次第と目立って來ました。
その森厳な宮域を進んで、玉串行事が行はれたのであります。
四枝の太玉串を左右両手に捧持して参進する勅使、掌典、祭主、大宮司、少宮司、禰宜等の世の常ならぬ様は、如何に高荘な、如何に宏大な、如何に深遠な、又如何に幽玄な厳儀が行はれるかといふことを思はせて、端なくも自から身心不二に凝止結晶するの感が湧き起ったのでありました。
斯くて、勅使よりはじめまして、次ぎ次ぎと御門内に参進し、全員は正宮中重の版にて、奉拜八度、拍手両端の拜禮を行ひ、更に内院に参入して、それぞれの版位に着いたのであります。
つまり、板垣御門を這入り、外玉垣御門から中重の鳥居を過ぎて、内玉垣御門、蕃垣御門、瑞垣御門を經まして、御正殿前の斎場に参りましたのであります。
その頃は、すっかり夜になって、庭燎の光は、愈愈神さび増さりまして、まことに、神の斎場、大神の斎場は、天地融會の大庭と申しませうか、仕へ奉る微身も、唯唯、不思議と心勇みて、神躍りに躍るを禁め得ないので、げに、天饒饒しく國饒饒しく、何とは知らに直酔に酔へる心地であります。
酔心地に我を忘れて居ると、奏樂の音が響いて來ました。
我に歸れば、勅使は既に御祭文を奏し畢り、大宮司、少宮司は階を昇りて、御扉を開くのであります。

みしまゆふかたにとりかけ、われからかみのからをぎせんや。からをぎ。
やひらてをてにとりもちて、われからかみのからをぎせんや。からをぎ。


奏づる樂は、神の代の聲と申しませうか、太古の音と云ふのでせうか、五十の音韻未だ剖れざるものでありませうか、曲は韓神と承って居りましても、その歌詞は、何とも聞き分くることが出來ません。
唯、アーアーアーとのみ韻くは、天地初發の時、大宇宙を讃美し驚嘆して、阿の一音に表現せしと云ふ、それにもや似たらんか。
やがて高く響く笛の音、篳篥の音に交りて、掻き鳴らす和琴の響き。
悠久の天地に、神祕の帳は、夜と共に深くなりまさるのみでありました。
御開扉の奏樂終りし頃、仄かに、御殿内が明く御幌に映え、大床には、ひかひかと光る燈火の奇しびなのが拜されました。
權の禰宜が昇殿して燈を點けられたので、いやが上にも神佐備まさりし神の宮居は、遂に、人間の世界とは、遠く遥に隔たってしまったのではないかと怪しまれたのでありました、訝かられたのでありました。
神の國、神の世界、神の世の神の宮居に、今し、祭主の宮には、昇階して殿内に候はれたのであります。大宮司、少宮司、禰宜も亦。
やがて、權禰宜が正殿の階下東方に卓立し、勅使以下は階下の東方に列立せられ、祭主は降階して西方に卓立せられ、權禰宜以下は階下の東西に列立します。
そして、宮掌と宮掌補とにて、御道敷布は正殿の階下から新殿の階下まで敷設されます。
と、階下車立の権禰宜が、召立文を讀み上げます。
つまり、御渡御に仕へ奉る諸員を御召しになられますので、前陣の宮掌より初めて、順次に、神儀奉戴の大宮司まで、総べて名を呼びて姓を申されません。 
例へますると、
「梓御弓二張、左、神宮宮掌桃太郎、右、神宮宮掌補竹三郎。次に云云』と様に讀みあぐるのであります。
召されますると、前陣、後陣の宮掌、宮掌補は階下まで参りまして一拜し、懐笏を致し、手袋を着けて、御物を執り、前陣は相當の位置まで進み、後陣は側に退き、行障、絹垣所役の權禰宜、宮掌は大床に参昇、一拜し畢りて各階下に列立し、出御を御待ち申上ぐるのであります。
時刻になりますと、宮掌一員、瑞垣御門下に於て、西方に東面して、鶏鳴を唱へます。
それは檜扇にて袍の袖を撃ち、羽搏きして、三聲。高く朗に。
茲に、
勅使は御階の下に進みて、『出御』を申し、掌典は警蹕を唱へます。
斯くして、
二十年の間神鎮りましましし宮居を、御出御遊ばされます。
時に夜正に八時でありまして、是時
天皇陛下に於かせられては、禁庭に下り立たせられて、御遥拜の御事と承り奉ります。
神ながら神を祭らす、神の道ある神の國をば、如何なる世界の涯までも、隅までも、残る隈なく、國といふ國、人といふ人は、聞かば、必ずや仰ぐでありませう。
知らば必ずや拜むでありませう。日の如く、月の如く。
出御には、權禰宜が御幌を?げまつるのであります。
御列は、
前陣。
宮掌二員、乗燭四員、御楯二枚六員、御鉾二竿四員、蒲御靱二腰二員、梓御弓二張二員、管御翳二柄四員、羅紫御翳二柄六員、金銅造御太刀二柄二員、玉纒御太刀一柄一員、須加利御太刀一柄一員、赤紫綾御蓋一具八員、
其の次に、伶人十二員、神楽歌を奏しながら参ります。
御神儀の前には勅使が立たれまして、その前に掌典が警蹕を唱へて進みます。
行障二員、絹垣二十員、
御は大宮司、少宮司、禰宜にて、奉戴申すのであります。
後陣。
赤紫綾御蓋一具八員、祭主、菅御笠二枚八員、梓御弓二張二員、革御靭二腰二員、御鉾二竿四員、御楯二枚六員、御火四員、宮掌二員、鶏鳴の宮掌が此所に從ひ、其の後に、内閣総理大臣、内務大臣、内務省神社局高等官、造神宮使廳高等官と三重縣知事とが、供奉員として續きましたのです。
出御と共に、今まで齋庭に焚かれて居りました燎は消されまして、いと暗き中を、静に、いとも粛に、次第次第と下って参ります。
それに、少しも暗さを覚えませずして、雲の中にでも立てるが如き気持にて、歩むとも無く自づと遷り行く如く思はれました。
然し、これが若し、平生であったならば、並大低の事では無い筈の道なのです。
其の上、常に用ゆること無き大きやかなる装束に、長き纓ある固き冠を着くるはまだしもとして、木の淺沓が、實に歩き悪きものにて、平垣の道にても脱げ易く、容易でないのに、經五六寸前後もある玉石の敷き詰められし上と、高き石畳の坂路とを、然も、眞の暗にも近き中にて、重き御蓋を捧げて、その上檜扇、懐紙はまだしも、指し込める笏の、まこと落ち易きを、若し落しもせば、例へ御物ならずとも大失態なのですから、その氣苦労は一通りで無い筈なのです。
が、それにもかかはらず、唯唯、空翔るとも云ふべき氣持にて、易易とお仕へ申すことの出來たのは、今考へても、不思議の感がするばかりです。


御渡御の道すがら奏でまつる神楽歌は、榊と聞きましたが、其の詞の聞き分け難きことは、御開扉の時と變りはありません。     
さかきばのかをかくはしみとめくれば、やそうちびとぞ。
かみがきのみむろのやまのさかきばは、かみのみまへにしげりあひにけり。

新御殿の外玉垣御門前より奏しまつるは、千歳であります。

せんざいせんざいせんざいや、ちとせのせんざいや。
まんざいまんざいまんざいや、よろずよのまんざいや。

斯くて、道の程、いと平けく、いと安らけく、新官に御入御あらせられました。
前陣、後陣供奉の諸員は、階下の東西に列立し、御道敷は撤せられます。
祭主には昇階せられ、禰宜は大床と御階とに候ひ、權禰宜は階下東方に卓立して、召立文を讀み上げ、召立に應じて、前陣、後陣の宮掌、宮掌補は、御装束、御神寳を、次第に階上の禰宜に進め、禰宜は之を御殿内に奉納しまつるのであります。
御鉾四竿、御弓四張、御楯四枚は、大床御戸脇左右御壁持の上に寄せ奉ります。
燈火の映えし御物の光りは、奇しくも尊く拜まれて、昨日まで己等の作り奉り、今し捧持しまつりしとは思はれず、雲井迥に、遥に隔りて、仰ぎ見るさへ、今一時を與へらるるのみとなりしも、まこと、遷り行くこそ、世の定めにはありけれと頷かれて、更にも仰ぎまつらるる許りでありました。
執物の諸員は、各一拜し退下して版に着き、禰宜は降階して版に着き、祭主の宮降階して版に着かれ、權禰宜は燈を撤し、降階して版に着き、大宮司と少宮司とは、御扉を閉ぢ、降階して版に着きます。と、
樂の音が起りました。早韓神と承って居ります。

かたにとりかけわれからかみのからをぎせんや。からをぎ。
てにとりもちてわれからかみのからをぎせんや。からをぎからをぎせんや。

勅使進みて階下の版に着き、御祭文を奏せられ、畢って座に復りますと、大宮司は勅使に遷御の大儀畢りし旨を申して復座します。
諸員は退きて、中重の版に着き、奉拜八度、拍手両端して退出したのであります。
御殿を下りますと、復た雨が降り出しましたが、祭儀中は、全く止んで居たばかりでなく、空さへ明く拜せられたのであります。
五丈殿に於て荒祭宮を遥拝し、そして後、齋館に歸り、茲に全く此の夜の大祭儀を終りましたのであります。
そこで、衣冠を脱いて旅宿に退きました。
宿に歸りて、御遷宮本仕のことを顧みますると、全く夢の如くで、よくも、自分如き身が、この尊厳極りなき、皇大御神の齋場の、その御階の下に参り、御物を捧持するさへあるに、御絹垣近く仕へ奉りて、四時間の間、過ちも無く、事を終ることが出来たかと思へば、全く夢心地が致しましたのであります。
それのみならず、
尚も、不思議の感を起すのは、自分の身も、心も、御祭儀に参りし前とは、忽然と變ったことで、例へば、大寒禊終了後とでも申したならば、或は、其の一端を御窺ひ下さることでありませうか。
愚なる私としては、御造營に仕へ奉りて、幾年月の禊をして居たとでも申しませうか。
それが、今結了したのであります。
主觀的には、自分に興へられたる一の仕事を終了したといふことだけでも、五箇年間の勞苦、勿然として雲散霧消すと云ふやうな感嘆の起るのも、或は當然かも知れません。
然しながら、又、客観上には、或ものを認めぬといふことは出来ません。
自ら成すといふは半面であります。
成させられつつあることを否むことは出来ません。
自ら為ざらんとするとも、求めずとも、欲せずとも、與へらるるものは、これを拒むことは出来ません。
而して神の與ふるところのものは神であります。
豫め期するにあらず、欲求するにあらず。
唯、興へられつつあることを知るのみであります。
今にして之を懐ひますれば、感歎の無量なるものがあります。

『 幸なしとなど歎きけん日の神の
い渡る今日ののりに遇ふ身を
日の御神渡るみ供にさもらへば
夜も明らけくをろがまれぬる
天照す神の御蓋を捧ぐれば
身もたな知らず空翔り行く
み民吾生けるしるしは 』
と拙き詞さへ出でずなりて、唯、をろがみまつるのみ。

御遷御の翌日は、朝六時といふに御贄を奉る大御饌の儀がありまして、すぐその十時には、奉幣の儀があります。
勅使が官幣を奉るのでありますが、其の参進さるる寫眞が、よく新聞紙や雑誌に出て居ります。
それから午後二時には、
古物渡とて、舊御殿内の後装束、御神寳の類を新御殿内に移し奉る式があり。其の夜は、終夜
御神楽奉献の儀があります。
斯くて、茲に完全に御遷宮の御祭儀がすみましたことであります。

翌る四日は、豊受大神宮の後鎮祭と川原大祓とがありまして、
五日には、御飾の儀をすまして、御遷御であります。
大體に於て、
皇大神宮の御儀と等しいのでありますが、何時か又機會がありましたならば申上ぐることに致しませう。

さて、此の御話を先づ以って申上げねばなりませんところの、川面先生。
先生は、既に顯し世には御座さぬのであります。
御報告申上ぐると共に、又御伺ひもせねばならぬ幾多の疑義もありながら、今は幽顯境を隔ててしまひまして、御呼び申しても、御應へ下さるものとては、唯、其の奥津城にひとり寂しき松風の幽かなる韻きのみであります。
然しながら、先生の英靈は、今現に神として、常にもがにも見そなはしつつあらせらるることであります。
否否、夫のみならず、先生の御分靈は、斯く御集り遊ばされたる同人諸賢の上にも御宿りになられて居ることであれば、皆様と斯うして御目にかかり、御詞を交へて頂くといふことは、取りも直さず、先生の御尊顔を拜し御詞を伺ひまつるに等しき事と思はるるのであります。
今は唯斯く思はれて猶更胸の迫るのみであります。
長時間の御清聽を煩はしまして恐縮致しました。
これにて此の御話を終ります。


( 完 )