世界の光 82号

平成17年1月6日発行

平成十七年の新春を迎へ
謹んで
御皇室の
弥栄を祈念し奉り
   世界の平和と
人類の幸福を
    希求いたします



1. 日本人は自覚する時である

                 筧 尚 子

平成十七年を迎へ、世界情勢を眺望する時に、然るべき人達が考へを統一し、平和を目標に一歩一歩進むべきであると思ひます。
そして、日本の外交はアメリカと共に、戦争を起こす危機を回避する突破口を作り、この地球から戦争を無くさねばなりません。
地球上より、核兵器を廃絶し、核の無い世界を出現せしむる事を強調出来る資格のある国は日本であります。
それは、広島・長崎に核爆弾を投下され、数十万人の人命が一瞬に失はれましたが、投下後も毎年多くの人達が後遺症で亡くなって居ります。
昭和二十年八月十五日、当時の昭和天皇は、日本の国民が死んで行くからには、終戦せねばと決断したまひ、外地の日本軍に対し、皇族方が伝達に飛行機で赴かれました。
当時、陸軍は反対し、いろいろ大変でありました。
以来、日本は不戦を貫いて来ました。
アメリカが核兵器を開発して居る? 又他の国もと言はれて居ますが、この問題を私は『古事記』を学び、天照大御神が天岩戸にお隠れになり、世界が真暗となって、泣き叫ぶ人達と憂いに包まれた時のことを思ひます。
『古事記』は不思議な書物であります。
私は、子供達が末子が小学二年生の頃に名古屋より兵庫県芦屋市に転居、七年後、西宮市に転居、六年後、名古屋市に戻りました。
主人が病気がちとなり、三晃社・常務の席を離れました。
関西在住中に、『蘇生古事記』が完成しました。
父・水野満年の言霊学による『古事記』解釈であります。
『古事記』は、宇宙創成より大国主命、天孫降臨、神武天皇のご即位以来の天皇の御治世として続いて参りました。
我が日本国は世界に類のない尊い国柄であります。
すべて、神々の御計らひによるものであります。


2. 復刊のご挨拶

                筧 尚 子

皆さま長らくご無沙汰をいたして居りました。
この『世界の光』誌は、病気療養中の夫 昌憲が一昨年、平成十五年三月三十日に逝去いたしまして以来、約二年ぶりの発行となりました。
我が国内の状勢は、社会的には不況時代より徐々に回復の状態、日本の政治は、米国主導の動きの中で、イラクの国内は徐々に好転し、仮政府の下で落ち着きを見せつつあります。
現在、旧イラクの残党の反抗が続いて居ますが、やがて国民の自覚が強力になって安定する日が来ることでしょう。
わが国には、未だ北朝鮮の問題があり、米国が強力な態度で解決を求めるか否かは、大統領選で結果が出ると思はれます。
最近、「言霊」に関する記事が新聞紙上に見られます。
父が『古事記』の言霊解釈をしましたのが、私が出版致しました『蘇生古事記』であります。
「大和言葉」は「言霊(ことたま)」であります。
遥か神代の頃に、『古事記』を著し給ふた天武天皇は、神懸りしたまふて、日本の歴史を「稗田阿礼」の語り部の「言霊」によるものを編纂したまふたのが『古事記』であります。
我々日本民族の歴史でもあります。
一昨年三月に逝きました夫の志を持ち、題名を選ぶ時に、私が亡き父・水野満年が、明治四十四年より『古事記』研究を発表して続けて居りました大正年代より昭和十九年(戦争の為用紙が入手不能)に至る研究発表は、言霊による『古事記』解釈を目的として居りました題名『昭和の光』の志を継ぎ、『世界の光』として昭和四十年より毎月発行して来ましたが、平成九年に名古屋市千種区の当地へ転居、主人・昌憲の発病の為中断いたしました。
この間、社会情勢は混沌として参りました。
我が国は所謂、国外へ産業基盤を移転の為、国内の産業が疲弊し、倒産が多く発生、経済の不安の為、不況と共に、社会的に人心も不穏を生み、国民の生活が不安定となり、自殺者・暴走の青少年の多発等、又海外より不良外人が流入し、麻薬・犯罪等が多く、学校に於ても非行問題が多く見られます。
戦後の教育が、米国によって日本古来の美風を以て教育する事を認められず、乱脈な事態を産んで居ます。
然し、教育者の中でもこれを自覚し、日本の将来を荷負う青少年児童を立派に育成する事に責務を感じ、努力して居られる教育者も多く在ります。
思へば、我が日本の国土は、神々の贈りものであり、伊勢の皇太神宮も、全国の神宮・神社に鎮まり坐す神々、国土は神国日本であります。
生を享けた幸せは、日本国民の自覚によって清められた時に、世界は真の平和となります。
結論を先に述べましたが、以前、本誌上で米国の小学校教育について掲載致しましたが、米国は世界中からの移民が多く、子供達も白人が多いのですが、四十人の子供の中で、三分の一は東洋系・黒人・その他と、将に世界の縮図を思はれます。
ニューヨークの夕方、家路へ急ぐ人達は、白人は半分位で、他は混り合って居ります。
米国人の多くは、キリスト教の人達が多く、日曜日には、一家揃って教会へ行き、牧師さんと共にお祈りをするのです。
又、子供達は毎朝講堂に集り、米国の国旗の下で国家を斉唱し、忠節を誓います。
日本の家庭に於ても、毎日神々に、又仏前に祈りを捧げる家々が多く在りました。
これこそ教育の基本であると思ひます。
そしてその教育の根本は、わが祖国日本に世々伝えられて来た神典『古事記』に求めるべきことを、ここで改めて申し上げて、復刊のご挨拶とさせていただきます。


3. 教育勅語を活用して現代の学生の精神教育を

               筧 尚 子

戦前の教育は総て間違ひである様に言ふ人達が多くあります。
之は民主主義を掲げる所謂、文化的先達を自負する方々の言ひ分であります。
敗戦後の焼野原にされた日本の現実を直視し、米国が日本の軍隊を恐れて、軍隊を無くして自衛隊を創設し、目下、自衛隊がイラク問題他、世界の紛争地帯に出動して居ます。
世論としては、一部に軍隊にしてもっと強化してとの意見もあります。
筆者の若い頃は、青年は総て健康である限り徴兵検査を受け、軍隊に入隊するのが当然でありました。
甲種・乙種・丙種があって、殆どが軍隊に合格し、男性であれば、国家の非常事態に於て、その体力に応じて軍隊に於て、国家を守る為に出動されたのです。
『教育勅語』に「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」とあります。
今日、自衛隊が国外にまで出動し、それが戦闘行為では無いとは言へ、他国である米国に関はる問題に対しての行動であります。
自衛隊の諸士には大変ご苦労であり、然し誰かが困難な立場に在って、それを解決に出動する事は大切な事です。
教育者が、教育の為に現況を正しく把握して、子弟に教へる事は大切な事であります。
之を思想的に曲げる事無く、正しい視点に立って教育する事が必要であると思ひます。
交通事情が地球規模になり、ニュースは瞬時に世界中に伝はります。
最も大切な事は、正しく之を把握し、報道される事であります。
明治時代の珠玉の様な『教育勅語』の一言一句は、世界に於ても人道の亀鑑となるものであります。
故井上俊治先生は、ドイツの首相・アデナゥアー氏が敗戦後ドイツ復興の鑑として独訳の『教育勅語』を応接室に額に入れ掲げられました由、申して居られました。


4. 淡路の夕景

               筧 尚 子

『古事記』上巻の神代の巻伊耶那岐大神、伊耶那美大神の国生みの件(くだり)に在ります。
之は現在の兵庫県淡路島の事であります。
私は昨年六月二十二日の夕方、三男宗憲が明石大橋を見る爲に自動車にて宗憲の長男尚暁と私と三人で、明石大橋を渡り対岸の淡路島へ行きました。
夕方のもやがかかり、真赤な太陽が西の空に沈みました。
大きな明石大橋は、ワイヤー五十米以上を束にして、厚いビニールの様なもので包まれた太い綱でつるされて居ます。(之は現地に輪切りにした現物の見本が展示してありました。)
現代の進歩した技術によって実現しました。
『古事記』によれば、遥か上代の神世に国生みに臨みたまひし、岐美二柱の大神の記述があり、数万年か、遥か上代に口伝にて残された『古事記』に記された淡路の穂の狭別島が私の眼前に、明石大橋が現代の技術によって見事に架橋が実現しました。
美しい、立派な明石大橋を、夕景に浮かび上った絶景を見て、感慨が一しほでありました。


5. 平成十七年維新断行

             筧 尚 子

わが国は明治維新以来度重なる苦難の時代を経て、平成時代となり、目下デフレ経済の下国民が必死の難関突破中であります。
経済問題は、長期展望が計算通りに行かず困難となって居ります。
之は私見ではありますが、定年を終えた年配の人達は経済的に余裕があり、海外旅行に多くが出掛けております。
一番苦しいのは、一般サラリーマン、現役の人等が、職場を失い、家庭的に責任のある年代が苦しいと思ひます。
此のギャップを埋める事が出来れば危機を突破できると思ひます。
即ち、政府の責任に於いて、此の年代の人達に無利子返済期限責任付きで融資を行ったら如何と思ひます。
巷では悪質な貸金業者が弱みに付け込み、悪事を働いて居るのを徹底的に取締り、現代の苦境を乗り切る様に指導されたく思ひます。
之は平成維新断行であります。
思想的にも平成の時代は明るく健全な活力ある男女、日本国民が光明を見出し世界の日本として力強く発進の刻でありたく思ひます。

   吹く風に秋の気配を
    感じつつ 佳き稔をば
      祈る此の頃 


6. 随 想

            筧 尚 子

一昨年イラクへ米軍が侵攻以来世界各地に於いて紛争が起きて居ます。
我が国はイラク紛争によって外交官二人が亡くなりました。
地球が宇宙の星の一つと云へば、地球上の出来事は些細な事と片付けられるでしょう。
然し、世界の中でアメリカと同盟を結ぶ我が国は、敵視されるのも致し方無いとも思へます。
一昨年亡くなった主人・昌憲は、「日本は世界中で最も関係の深いのが、アメリカである。
そして過去の敵国でも、平和条約を結んで、交易上一番大切な国である。
だから慎重に考えすべてに於いて友好的に運ばなければならない」と申して居ました。
私は亡き父の言霊解『古事記』を子育てのかたはら、十一年の日時をかけて出版致しました。
父の遺著『蘇生古事記』は日本で生まれた宇宙の歴史であると思ひます。
我が国では、言霊解の『古事記』は他には無く、神々の御世より現代に贈られた、即ち宇宙より現代の我々に贈られた至宝であると思ひます。
そして世界に無比の神国日本に生を享けた、我々日本人は自らの尊い事を自覚せねばならないと思ひます。
即ち日本国の国民は「世界の日本」である事を自覚し人類の平和の為に挙って努力すべきであります。


7. 小笠原長生閣下の御言葉によって

            筧 尚 子

大石凝眞素美翁顕彰会の総裁をお願いして居りました、まだ父の在世中、私は父と一緒に上京し一条公爵閣下をお訪ねした翌日、小笠原閣下のお宅をお訪ね致しました。
私は東京の地理にうとく町名を記せませんが、閣下は私共親子を応接間に通して下さいました。
私が父と共に上京の理由は、父の志を継承して、『古事記』研鑽や国学を学ぶ爲でございました。
東京は連日の米軍の空襲がありました。
応接間の棚に山本五十六閣下の写真の額に黒いリボンが掛けられて居ました。
私がじっと額を見つめて居ましたら、小笠原閣下が、「惜しい人を亡くしました」と一言申されました。
私は、五十余年後の今日迄小笠原閣下のあの御言葉が忘れられません。
NHKのラジオ放送を先日聞いて居りましたら、「山本五十六閣下をアメリカは真珠湾攻撃の仇敵として、出身地の長岡市を空襲した」と云ふ事でした。
終戦前、日本軍の戦線は敗戦の色濃く、東条総理大臣は連合艦隊司令長官山本五十六元帥に南方戦線への派遣を決し、山本元帥一行は司令長官機一機にて、護衛機も無く南方の戦線に向かはれました。
然し、暗号を傍受した米軍機の攻撃により撃墜され、全員が戦死されたのであります。
最近外務省の乱脈な事件が問題になって居りますが、大東亜戦、開戦の際にアメリカ大使館員が、日本の対米開戦通告を、正式に日本の宣戦手続を怠慢にて遅れた爲に、アメリカは不意打であると今日、ブッシュ大統領が日本軍の真珠湾攻撃を問題にして居ります。


8. 父 水野満年と嗣子 明について

             筧 尚 子

父満年の長男・明は、予科練習生時、終戦となり帰省し、豊橋にて開墾農業する爲、淑恵が手配致しましたが、明は農業をする事が不得手の為 自衛隊を志願、同期千六百名の中で、入隊以来トップの成績にて、豊橋の水島家の長女清子と結婚しました。
その後、父と同居し 昭和二十九年一月四日 三重県久居の自衛隊の官舎より父は、名古屋の筆墨商の旧知の招待にて来名しました。
当夜、新年宴会の後、体調を悪くし、当時東区徳川町の筧宅の淑恵に架電がありました。
一月五日夜、淑恵(尚子)見舞いに行くも、昭和二十九年一月六日、心不全にて急逝致しました。
父は、私を東京にて国学研究の爲、東伏見宮家に寄宿し、大学に入学の手配の爲、一条公爵、小笠原子爵の支援により勉学の途へ進む様に、父と同道し上京、両家を訪問後、挨拶を致しました。
然し、私は幼時より体が弱く、親戚、母、姉弟が心配の爲に上京に反対をし、急遽、年齢の事もあり、筧昌憲(主人)との結婚の話を進め、昭和二十二年二月二日、姉夫婦の仲人にて結婚致しました。
父満年死去の後、弟・明方より、父の遺著『蘇生古事記』の原稿を私方に送って来ました。
弟明は自衛隊員として、地図中隊の隊長となり、日本の地図作製の爲、停年迄勤務致しました。
そして、平成八年十二月、防衛庁より表彰を受け、勲五等双光旭日章を賜り、 天皇陛下より親しく勲章と共に御言葉を賜りました。


9. 主人は、戦友の御霊の傍へ往かれました

              筧 尚 子

主人・昌憲は戦時中押召され、中退はガダルカナル島にて全滅、主人は一人参謀本部へ派遣されたため無事、その後南方軍に加はり、敗戦後帰還致しました。
我が家は太平洋戦争の戦死者慰霊塔真北に当るマンション十一階です。
私は此のマンションへ転居する際の事を思い出して不思議に思います。
桑名の家を転居の際、高蔵寺のマンションへ移る事に決定しました。
その心算にては対応して居りましたので、本契約の為、公団事務所に主人と二人で参りました。
その際、主人が一人ごとで、「名古屋が良いのだが・・」と、ぽつりと申しましたら、事務員の方が、「一軒だけあります」と云われたのが、現在のマンションです。
高い階なので、風の通りがよく、夏でも蚊が入ってきません。
 平和公園の墓地を囲む東山公園周囲の森は、眼下に在ります。
 愛郷会は、終戦を迎へて、亡き主人が無事帰還し、昭和二十一年八月、三井物産の財閥解体の爲に退社し、義兄の広告の会社に、常務取締役として、入社以来停年まで在社しました。
愛郷会の同窓生の方々も年毎に逝去され、平成九年四月に現在地に転居して来ましたが、平成十五年三月三十日午後三時五十分、呼吸が苦しいと云はれ、三時三十分、救急電話をし、五分後に救急車到着、八事日赤に入院致しましたが症状は回復せず逝去致しました。
当日頃は桜が満開の気候にて、四月一日葬儀の際は、桜の花の道を八事の火葬場へ向ひました。
一年の中で最もよい気候であり、子供も孫達も春休み中でありました。


 夫逝きたまふて 二年近く
     香華を手向け 独り祈りぬ
  倒れし折に ガラスが割れた
     不思議に けがもなく
   「父さんが守った」と
     子が言ひませり  
 

                        以上


〈 後 記 〉

○ 前号平成十三年三月以来暫らくご無沙汰致して居りましたが、『世界の光』誌八十二号をお届けさせていただきます。
この間、筧主幹のご主人・昌憲氏の病気療養からご逝去と、人の世の常とは言へ、惜しむべくも悲しいこととなりました。
蔭に日向に主幹を支え育てられて来られた昌憲氏のご逝去に、どれほどお力を落とされたか、私ども周りからは思ひ計ることさへ出来ません。
然し、その悲しみより少しづつ元気を取り戻され、そして折々に原稿を書き溜められ、この程やっと復刊の運びとなりました。
○ 昨年九月二十六日、三重県亀山市木下に在る大石凝眞素美翁の奥津城にて、同人八名出席のもと、九十一年祭が執り行われましたが、これにも筧尚子主幹は出席され、祭典後、大石凝眞素美翁ゆかりの川村政敬氏宅にご挨拶に伺ひました。
当日、川村家の祖母、齢九十六歳になられる久仁子刀自も玄関先までお顔を出され、水野満年翁在世当時の主幹との懐かしいお話に花を咲かされ、久しぶりに伺ふ昔話に当時の有様がふつふつと浮かび上がり、感慨一入でした。
又、ご当主・政敬様ご夫妻よりも例年の如く、暖かいおもてなしを賜り、参加者一同粛々且つ楽しい一日を過ごさせて戴きました。

まず墓域の清掃からはじめます         墓前祭後の記念撮影
筧主幹と川村家の祖母・久仁子刀自     ご当主・政敬様ご夫妻と清談
○ 本年一月六日(木)、水野満年翁五十一年祭を執り行ひました。
大石凝眞素美翁顕彰会の恒例行事として三年前より行って居りますが、名古屋市瑞穂区の神宮墓地の奥津城に参拝後、光和養神道場にて祭典を行ひました。
○ 昨年来のイラク戦争、更に新潟地震、スマトラ沖地震などの犠牲者の方々に哀悼の表し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
然し又、この天災・人災の意味するものは何かをとくと考えて行動する年でもあると思ひます。人類が時・處・位を忘れた時、大自然は大きな祓ひを行ふのではないでしょうか。    (編集生)