修 禊 問 答 ()

  石田 盛山

 一、みそぎとは

●みそぎとはなんですか。

みそぎとは、簡単に云うと人が神になる方法のことを云います。これは、この地球誕生の際、伊邪那岐伊邪那美二柱御祖神とおっしゃる地球生命の元祖とも云える神が垂示されたもので、『古事記』に伊邪那岐命が筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちはな)の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)で祓禊(みそぎ)をされたとあるのがそれです。

●それはいつ頃のことですか。

地上生命の発生以前になりますから、現代の地球物理学的年代から云えば数十億年以前のことになるでしょう。

●そんな頃に神様が居たのですか。

そうです。あなたは神様と云うと、人間のような姿形を持っていると思われて居るようですが、そればかりではありません。カミ()と云う言葉には、宇宙を進化発展させると云う意味があります。ですから、絶えず進化発展を繰り返している宇宙のエネルギーと云うか、宇宙造化の推進力をカミ()と云うのです。

●では、姿形を持った神様は居ないのですか.

居られます。それは国津神(くにつかみ)と云って、大体、人の形をして居ます。大体と云う.のは、此の国津神は大きく分けて一身、二身、三身、四身の四段階に分けられますが、一身の国津神は光体、二身の国津神はガス体、三身の国津神は水体で、四身の肉体よりも体の輪郭が不安定な為、はっきりとした人の姿形にはならないからです。  

●すると、光の体を持った神様や、ガスの様な神様や、水状の神様が居るわけですか。

そうです。国津神と云うのは身を持って居る神と云うことで身魂(みたま)の神とも申しますが、それぞれ奇世(くしよ)、幸世(さちよ)、和(にぎよ)、現世(あらよ)に居られます。

●姿形を持たない神様は何と申し上げるのですか。

天津神と申し上げます。

魂の神とも申しますが、地上築成の後は、天に坐してこの地球を見守っておられます。

●天のどの辺りに坐しておられるのですか。

天の安の河原に坐しておられます。天の安の河原とは太陽系を含む大太陽系の中心を云いますが、ここから全ての地生命の種が撤かれています。丁度、北の夜空を見上げると北極星が見えますが、そのすぐ傍に龍座という星座があります。この龍座の腹が天の安の河原にあたります。

●天津神が坐すと云うことは、それ以上の神様が居られるのですか。

天津神の上は、別天津神(ことあまつかみ)と云う神々が居られますが、これは宇宙創成の根源力で、隠身(かくりみ)と『古事記』に記されている如く、姿形は見えないけれども確かに実在する重力とか、引力とか、反発力とかの呼び名で現在の我々が呼んでいるエネルギー、物質を形成する資料となるクォークなどの素粒子、これらを総轄して支配している精神の三つを示しています。これらは普く大宇宙に遍満して萬物を構成しているのです。

●少し難しいお話ですが、みそぎとは単なる水を被って心身を清めると云うことではないのですか。

水を被って心身を清めるのも水滌厳法(みそぎいつのり)と云って、大事なみそぎの修行です。修禊の同人なら毎朝行って居ますが、現今の人達は禍霊依(まがひより)の人が多くて水を被るのを恐がります。これは、その人に憑いて居る禍霊が祓除されるのを嫌って、その依リ代である当人に風邪をひくのではないか、血圧に悪いのではないかなどと、いろいろの恐怖感を思い走らせせて居るのです。
当の本人はそれとも知らず、いろいろ尤もらしい理屈で言い訳をするのですが、思い切って行ってみれば大したことはなく、却って気持ちのよいものです。ちょっとした心身の違和など水滌厳法を行えば直ぐに楽になります。私などは、これが本当の水薬だと思って居るほどです。
この水を被るのは水の霊力により我が身に憑く罪科・垢穢(つみとが・あかけがれ)を祓い、宇宙エネルギーを体内に摂り入れるもので水神事(みづのかみわざ)と呼ばれます。正しい方法によって行えば決して過ちは起きません。道彦について正しい作法を修得してください。

●では、水を被ること以外の、みそぎの修行もあるのですか。

みそぎとは、時間・空間を超越した宇宙の真理を学び、これを体得すること本旨とするものです。入会と同時に渡される「みそぎのすすめ」を見れば分かるように、十段階のみそぎの神事の階梯を順を逐って修めて行くものですが、水神事はその第一の日神事に含まれるものです。

ですから水を被ることも大切な修行ですが、それ以外にも数多くの修行があります。

これは前にも説明した通リ、神代の昔から伝わるもので、下り魂(くだりたま)の教えです。世俗に蔓延る諸種の宗教は、教祖と云う一人の天才が自分の悟リを世に弘める為に出来たものであり、また幾多の先人たちの研究・努力によって積み上げられてきた上り魂(のばりたま)の教えです。いろいろの修行については順次解説の予定です。

 

 二、みそぎと宗教

●すると、みそぎは宗教ではないのですか。

ですから、みそぎは宗教であるとも云い切れないし、宗教でないともい切れません。
なぜなら、それは聞く人が何を基準にして聞いているかと云うことによって決まるし、また答える人が何を基準にして答えるかによっても決まるからです。

●その基準とは.

いわゆる世間によくあるところの、教祖のある何々教と云うような宗教ですかと云う質問なら、宗教では無いと答えます。ところが、道と一体になるとか、天地の根源と云うようなものと一体になるとか、或いは宇宙意識などと云うものを神として、それと一体になってゆこうとするもの、それに近づこうと修行によって努力する、そういう宗教ですかと聞かれるなら宗教であると答えます。

元々、宗教の宗の字の宀はウで萬物を産み育て、又、それを収蔵する天地四方に遍満する宇宙を現します。その下に示が付くことにより宗の字は宇宙を示す教えを指示する文字と云うことになります。

そういう意味からすると、みそぎは本当の意味の宗教と云うことが出来ます。

結局、聞く人が何を基準にして聞いているかによって、その内容に大変な相違が起こりますから、簡単にみそぎは宗教であるとか、宗教に非ずとか断定的な答は出来ません。

しかし、一般的に云うと、直ぐ教祖のある宗教団体と誤解されやすい為、みそぎは宗教に非ずと云う表現が多いわけですが、本来の意味でなら宗教なのですから、この辺のところを誤解のないようにして下さい。

みそぎは、悠久無限、宇宙創成以前より存在する原理で、太陽はもとより、この地球上の森羅万象はこの原理から生じたものなのです。

地上生命もこの原理により誕生し、スサノヲ(草木)・ハヤスサノヲ(虫魚)・タケハヤスサノヲ(禽獣類)・タカギスサノヲ(人類)と階を進めて進化して来ました。

ですから教祖と云う単に一人の天才が自分の悟りを世に弘める為に出来たものではなく、宇宙以前に始まり、今日にまで伝えられて居る存在の原理である、神道・神事・神伝・神言を学び、これを体得し、永遠減の宇宙身に再生し、本物の白分に見参することが、みそぎを修めると云うことになるわけです。