大石凝眞素美翁顕彰会


                                お知らせ

今年は大石凝眞素美翁が帰幽されて101年を迎えます。
大石凝眞素美翁百一年祭を、本年4月13日(日)午前11時から、三重県亀山市内の奥津城にて執り行います。参加ご希望の方はご連絡ください。



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幕末から大正にかけて生きた隠れたる勤皇の国学者・大石凝眞素美翁の遺徳を顕彰し、後世にその教学を伝承し、更には、大石凝眞素美翁の高弟・水野満年敬山翁の『古事記』の精華発揚の理想を継承し、混沌たる我が国思想界に清風を吹き起こさんことを目的として、大石凝眞素美翁顕彰会が設立されて居ます。


● 大石凝眞素美翁顕彰会機関誌『世界の光』 82号 (平成17年1月号)

● 大石凝眞素美翁顕彰会機関誌『世界の光』 83号 (平成18年1月号)

● 大石凝眞素美翁顕彰会機関誌『世界の光』 84号 (平成19年1月号)

● 大石凝眞素美翁顕彰会機関誌『世界の光』 86号 (平成20年8月号)

● 大石凝眞素美翁顕彰会機関誌『世界の光』 87号 (平成21年7月号)筧尚子(淑恵)先生哀悼号

● 水野満年敬山翁略伝

ここでは『大石凝眞素美翁略傳』に基づき、大石凝眞素美翁の略歴および教学について紹介します。

大石凝眞素美翁     隠れた勤皇の国学者
『大石凝眞素美翁略伝』

(昭和23年発行)


[ 大石凝眞素美翁略傳 ]

【 出生 】

大石凝眞素美先生の祖先は近江国甲賀郡油日村字毛枚(をびら)の人にして、姓を望月氏と称し、翁の祖父・幸智氏は国学者である。
翁は天保三年十一月、伊賀国上野の小王町に呱々の声をあげた。
幼名を望月春雄と呼ばれ、元服して大輔広矛と改めたが、後更に明治六年九月、大石凝眞素美と改名、以後は専ら大石凝眞素美の名で通された。
父は望月登、母は川村文。
家は代々学問を以て知られ、当時、父・登は醫を業とされる傍ら、多賀神社の神札を諸国に配布される事にも当って居られたと言ふ。
家系は日臣命の直系・大伴氏の後裔と傳へられ、壬申の乱の秋、近江朝廷方に殉ひ、草奔の間に韜晦して伊賀、近江の地に轉住し、代々望月を以て姓として来たが、その間の系譜の詳細は調査中である。
始め翁は、醫を以て業を継ぐべく醫学を学ばれたが、醫を以て立つの志なく、国学を学ばんとして足代弘訓の門に入った所、足代翁が門弟達を訓すに洋学の奨励を以てしたのを憤って、止る事歳に満たずしてその門を去って、折柄の打ち続く幕府の失政を憤り、国内の人心騒乱と国家の前途を憂ふの余り、これを神智によって打開せんとの悲願を抱いて、諸国に神人を求めて飄然、遍歴の旅に出られた。
この神人捜索時代に於ける先生の学問上の経歴は余り明かでなく、只僅かに播州・龍野の言霊学者・脇坂内蔵直成に會されたのと、高野山に於て佛典を研鑽された事歴とが傳って居るに過ぎない。

【 京師時代 】

神人捜索の旅に出られた翁は、各地に遍歴して神人を求むるの傍ら、国学並佛典の研鑽を続けて、この間学識も大いに進んで、その所説にも亦見る可きものがあったが、時恰もよし、文久三年十二月、翁三十二才の秋、学習院に学者を會して教学を大いに振興せんとするの機運に際會、翁は直ちに上京して鹽満玉・鹽涸玉献上の儀の奏請方を申し出られたが、係員に翁の真意の奈辺にあるやを解せられなかったが爲、遂にこの儀は用ひられる所とはならなかった。
それより翁は、専ら京師にあって血氣白刃の間を往来、天誅組の屯所を訪れ皇国の至道を説き、巨魁等をして舌を巻かしむる等の事もあり、大いに国事努められて居たが、一夜天満宮の夢告に依って京師を去り、志士の大捕獲を遁れる事を得られたが、慶応三年、幕府が大政を奉還するや、翁は事態の容易ならざるを察して再び上京、北小路新大義を通じて二條摂政関白殿に「神理の奥義に依り干戈を動かさずして世を至平に導く」献言を寄せられたが、二條公の逡巡により、翁折角の献言を用ひるに至らざる間に舞台は一轉、王政復古の大号令煥発で兵革の止む可からざるを知り、翁は失望して京師を去られた。

【 秀道師方に於ける研学 】

京師を去った翁は、慶応末年、三十六才の時、美濃国不破郡宮代村に山本秀道師の許を訪問、一度會ふや、この両達人は忽ち肝胆相照し、久しく己れが尋ぬる神人は秀道師であったとの霊感に導かれ、茲に翁は秀道師方に止る事となられた。

  
山本家(左)と神前の鉄塔山の扁額(上)
この山本秀道師と言ふのは玉祖命の系統で、代々宮代村南宮神社の側に住し、系図正しき家柄で鉄塔山と号して修験道を以て知られ、殊に秀道師は神人としての聞へ高く、種々奇蹟に類する逸話も尠くないが、しかも目に一丁字なくして神導の妙諦に達して居られると言ふ奇態の神人であったので、従って翁が師より教へを受けられるのも、書に就いて教へを乞ふのでも無く、講義をきくでも無く、只師弟共至心に神に祈念をこらし、師の霊感に導かれて古典の研鑽に努められたのである。
かくして秀道師方にあって風変わりな古典の研鑽を続ける事約三年、翁三十九才の秋、当時同じく秀道師の許に寄寓せる木村一助氏と計り、神官の堕落して眠れるを論難、その言辞頗る激越を極めたので、かへって神官等の中傷に會ひ、笠松警察署に留置の厄を受け、一端郷里に帰った後再び秀道師方に寄寓、古典研鑽に努められる事となったが、これ契機に明治六年九月四十一才の秋、名を大石凝眞素美(おほいしごりますみ)と改めた。
大石凝(おほいしごり)とは鏡を鋳られた伊斯許理度賣命(いしこりどめのみこと)の御名に因み、眞素美(ますみ)とは言霊学の所謂『ますみの鏡』を意味するものであり、当時既に言霊学研究に於ける翁の自信の程は略推察するに足るものがある。尚、木村一助氏も同じく姓名を改めて太玉太観(ふとたまふとみ)と名乗った。
この当時、翁の傳記中逸してはならぬ逸話に誓火(うけひ)の実験の失敗がある。
明治八年、翁は例の太玉太観氏と共に上京、同九年四月二十一日、山岡鉄太郎邸を訪れて誓火(うけひ)の実験を行ったが、見事に失敗、これが為め太玉太観氏は片腕を失ふに至り、翁も亦憤然郷里に退いて深く謹慎の意を表される事となった。
以上を翁生涯の第一期とすれば、再び郷里を出でて大和を再遊、独自の言霊学並に天津金木(あまつかなぎ)学の体系を完成して来名せられるに至った迄を、翁生涯の第二期と見做す可きであらう。

【 言霊並金木学の大成 】

翁の大和再遊は明治十年より十一・二年に至る間のことであるが、この頃から翁の思想学風は著しく神祕的の風貌を帯び来って、この翁の神祕的学風は殊に天照皇大御神と素戔之男命との誓に依りて生れませる五彦御子御誕生の地を近江なりと唱へられ、三姫神は今の竹生島に生れませるものなりと断定せられ、翁独自の近江原人説を唱導せられるに至って、一般常人の窺知・端倪を許さざる所の神祕的傾向を顕著にし来った。
而して、この大和再遊の帰路、翁は近江国野洲より海路蒲生郡八幡に至るの船中に於て、沖之島南面を過ぐる時、水面に描かれた大波紋を見て、言霊学上に於る水茎文字の一大発見を遂げられるに至り、明治十二年の頃、三度び山本師宅に寄寓、言霊学、殊に前人未到とも言ふ可き天津金木(あまつかなき)学大成の為、孜々として学説の完成に努められ、茲に両学説の体系を完成を見るに至ったのである。
大石凝眞素美翁が山本秀道師
と共に研鑽された勝神社
勝神社本殿(ここで秀道師・審神、眞素美翁・神主となり
鎮魂帰神の神事を行い、神々の啓示を受け、『古事記』中
の数々の疑問を解明された)
『眞素美の鏡』

七十五の音により宇宙萬有が形成されて
居ると言う大石凝教学の基本図表である。
翁の完成せられた『大日本言霊』は洵に古今独歩とも言ふべき感あり、他の国学者の言霊学が總べて五十音を基礎として居るのに対し、七十五声の配列を以てし、その神機の妙用には全く驚く可きものがある。
また『天津金木』は天造神算木(あまつかなき)とも言ひ、天・地・火・水(あめ・つち・ひ・みづ)の四大を表象する四分角二寸の金木(易の卦の如きもの)なるものを所謂、翁の『極智の極算法』を以て千坐(ちくら)の置坐(おきくら)に置き足らはして『古事記』を直読するものとされて居るが、惜しいかな、天津金木に対する学説は翁の門人・水谷清氏がこれを承けて一時旺んに宣傳せられて居たが、水谷氏の死去と共にこれを世に紹介する者なく、今では只、讒にこれが運転の結果を記載せる翁自筆の図表が水野満年先生の手許に傳へられて居るのみである。

【 雌伏時代 】

さて、言霊・金木の両学説を大成後、翁は山本氏宅を出で、伊勢国松坂西方の霊場・飯福田(いぶた)に参籠、ここで亦しても高御産巣日・神産巣日の回轉力は三倍輪の速度を以て昇るの理を発見された後、飯福田を下り、伊勢国鈴鹿郡神辺村木下なる令室の実家に至られて雌伏される事となった。
この神辺村木下に於ける翁の雌伏時代は、一面平穏なる著述の機會に恵まれたるが如くであったが、令室との不和、並び種々の家庭的な煩ひと、常人の窺知を許さざる翁の奇矯なる行動と、豫言等の為、周圍の疑惑を醸し、その筋の監視亦厳重を極めて最も不遇、悲惨なる時代であった。
しかし乍ら、翁の性格はかくの如き不遇・悲惨なる境涯にあっても必ずしも小事に拘泥せず、頗る無頓着であった。
翁は当時、某重大問題に就き、時の宮内大臣・土方久元氏に再三金封筒の書簡を以て進言せられて居たが、偶々葉書を以て進言せられたのが法に触れ、津裁判所に於て取調を受け、裁判長より「君程の学者がかる内容を葉書で出せば法に触れる事位が解らなかったか」と言はれたのに対し、「知って居たが、その時は一銭五厘しか無かったのじゃ」と答へられたとの事である。
峻烈、厳格なる性格の反面、翁は実にまたかくの如き飄逸なる趣を備へて居られたのである。

【 翁の来名 】

明治二十三年、翁は我が惟神大道の上に由々しき改革の儀が行はんとするを憂へて、皇大神宮の炎上其他種々の予言をせられたのが悉く適中した爲、返って時の政府より睨まれて、明治三十一年、吾勝山(あがやま)参拝の折は山上の茶屋に禁足の厄を受けられる等の事があり、其の後各所を遍歴して明治四十年、翁齢七十六才の時、名古屋市洲崎町の熱心なる法華経の信者・服部政之助氏に招かれて始めて来名、同氏の紹介にて自著『眞假名附法華経』一巻を携へて名古屋市七曲町の唯一佛教団に清水梁山を訪れられた。
これは法華経を『古事記』の讃美歌也、と言ふ翁の持論に依り、『古事記』と『法華経』の密合を成就せんとの希望に出づるものであったが、この時は唯一佛教団に止まること十餘日にて一先づ帰郷、明治四十一年十月、再度来名せられたが、元より法華経を唯一のものとする清水梁山と、法華経を古事記の讃美歌と見做す翁とは相容れる筈なく、翁は教団を去って東区宮町なる水野満年先生方に寄寓せられる事となった。

【 晩年 並 終焉 】

翌明治四十一年七月、翁は水野先生の好意により、満腹の経綸と希望を抱いて上京、青山穏田に飯野吉三郎を訪はれたが、亦もや事志と違ひ、人情の浮薄を嘆いて帰郷、再度飯福田に参籠、後出でて三度来名、水野先生方に身を寄せられる事となった。
茲に翁の多事・多彩にして不遇を極めし生涯の第二期は終りを告げて、全く平穏なる第三期の著述生活に入られる事となった。
この来名期間中、翁の種々なる予言の中、当時飛行機の未だ発生せざりし時代に、頻りに飛行機の将来活動するに至る事を予言せられて居た事と、近く日本國を中心として娑婆と地獄切り上げの世界的大戦の起る事を予言・警告せられて居た事は、親しく翁の声咳に接した者の等しく知る所であるが、今や事態は一轉、悲しくも翁の予言・警告が適中せる事を嘆かざる者があるであらうか。
それはさてをき、水野先生方に於る著述生活中に脱稿を見たる著書は『古事記神祕の正説』と翁畢生の大著『眞訓古事記』の二著であるが、明治四十四年、『眞訓古事記』を脱稿後、微恙を覚へられて水野満年先生方にあって療養に努められたが、寄る年波の爲か、恢復捗々しからず、依って翌明治四十五年二月二十六日、神辺村木下に帰郷、静かに病ひを養はれる事となったが、遂に大正二年四月十一日易簀、享年八十有二才、遺骸は木下の村有墓地の傍に葬る。

嗚呼、時運日に非なる國学の道を守って一身を顧る事なく、國事を憂へて東西に奔走して家を為さず、前人未到の学説を大成して皇國の至道を説くと雖、用ひられるに由なくして人に狂と呼ばれ、愚と罵られて終生志を得ず、満身鬱憤と傷心に破られて遂に逝く。
翁の奥津城背後には、鈴鹿川が涼々の音を立て、前面左り手には毎年この不遇なりし國学者の眠りを慰むるが如く、墓標を蔽ふて櫻の老樹が満開の花をつける。


大石凝眞素美翁の奥津城 ( 改修以前の風景 )  昭和61年撮影



【 大石凝眞素美翁 著書一覧 】

●『天地糖M貫きの巻』
●『佛説観弥勒下生経』上・下
●『弥勒出現成就経』
●『阿弥陀経真実解』
●『三種神器の御謂禮』
●『大日本言靈』
●『真訓古事記』上・中・下
●『天津神算木の極典』一・二
●『天津神算木運用秘書』五冊
水野満年翁筆写『天津神算木運用秘書』五冊

●『大神宮炎上豫定』
●『天皇祝詞』
●『神世を済し奉る祝詞』
●『近江國甲賀望月由緒』  ほか



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