大石凝眞素美翁顕彰会 その二


幕末から大正にかけて生きた隠れたる勤皇の国学者・大石凝眞素美翁の遺徳を顕彰し、後世にその教学を伝承し、更には、大石凝眞素美翁の高弟・水野満年敬山翁の『古事記』の精華発揚の理想を継承し、混沌たる我が国思想界に清風を吹き起こさんことを目的として、大石凝眞素美翁顕彰会が設立されて居ます。

● 大石凝眞素美翁顕彰会機関誌『世界の光』 82号 (平成17年1月号)

● 大石凝眞素美翁略伝

● 大石凝眞素美翁墓前祭報告(平成16年9月26日)


ここでは水野満年翁の略歴および教学について、息女・筧尚子氏の筆録されたものを掲載致します。

    
水野満年翁          


[ 水野満年敬山翁略傳 ]

【 古事記研究の略歴 】

明治6年9月9日、名古屋市東区神楽町に生まる。
幼名・錺太郎、通称を文助と称す。
至誠報国の志厚く、高等小学校を終るや陸軍士官学校の入学を志し、当時大阪第四師団副官・歩兵少佐、大村屯(親族)方に寄宿して勉学せしが、中途にして家業を継ぐ為止むを得ず帰郷したり。時に年は十七歳。
以後鋭意業を励み(筆墨御商大林堂)、歳三十五歳にして家声大に挙れり。
明治四十年夏、伊勢の国学者・大石凝真素美翁来名せられ、皇典古事記の国體明徴、皇運扶翼の宝典にして、其の研究が時代の急務なる所以を力説せられるに賛同し、茲に意気投合し、多年の素懐せる報国の精神を貫徹せんと欲し、翁を自宅に迎へて師事し、其の独特なる大日本言霊より古事記の研究を為せり。

満年翁が見られた水茎文字  
(写真が古いのでかなり  
見難いが貴重な写真である)
明治41年3月23日  大石凝眞素美翁の案内で水茎の丘より
水茎文字を拝観した際の記念写真(宮川由太郎氏撮影とある)

明治四十一年十一月十三日、戊申詔書の煥発せらるるや、上下一般大詔の大精神を没却して、専ら「勤倹貯蓄の詔書」なりと称し、詔書の大精神たる「国運発展の大本」を示し給ひて、「神聖祖宗の遺訓」と「国史の成跡」を研究し、以て忠良臣民の協翼を倚籍し給ふ重大事理を逸せるなり。
即ち、

戊 申 詔 書
    
朕惟フニ方今人文日二就り月二進ミ東西相倚り彼此相済シ以テ其ノ福利ヲ共ニス 
朕は爰二益々国交ヲ修メ友義ヲ惇シ列国ト与ニ永ク其ノ慶ヲ頼ラムコトヲ期ス 
顧ミル二日進ノ大勢二伴ヒ文明ノ恵沢ヲ共ニセムトスルハ固ヨリ内国運ノ発展二須ツ 
戦後日尚浅夕庶政益々更張ヲ要ス 
宜ク上下心ヲ一ニシ忠実業二服シ勤倹産ヲ治メ 
惟レ信惟レ義醇厚俗ヲ成シ華ヲ去り実二就キ荒怠相誡メ自彊息マサルヘシ(前段)
仰々我カ神聖ナル祖宗ノ遺訓ト我カ光輝アル国史ノ成跡トハ炳トシテ日星ノ如シ 
寔二克ク恪守ジ滓礪ノ誠ヲ輸サハ国運発展ノ本近ク斯二在り 
朕ハ方今ノ世局二処シ我力忠良ナル庶民ノ協翼二倚籍ンテ維新ノ皇猶ヲ恢弘ン 
祖宗ノ威徳ヲ対揚セムコトヲ庶幾フ
爾臣民其レ克ク朕カ旨ヲ體セヨ(後段)

即ち忠良臣民に、神聖祖宗の遺訓と国史の成跡とを研讃し、以て国運発展の経綸を確立することを庶幾し給へること明瞭なり。
是に於て奮然として、葵傾の誠を輸(いた)さんと欲し、当局(内務大臣平田東助)に対して其の指導精神を誤れるを忠告し以て猛省を促がし、又有力者に反省の勧告書を送り、一面社会的覚醒を促がさんとして同志・水谷清氏と図り、機関雑誌「国華教育」を毎月一回発行して其の普及に努力せり。
此間、大石凝先生を紹介して各所に於て講演会を催し、又一面上京して宮内省に登庸を運動せしも徒労に帰せり。
故に先生は満年の宅に於て明治四十三年、筆を起して「真訓古事記」の原稿執筆に着手せられ、四十五年一月、其の稿を終るや病を得て、郷里・伊勢国鈴鹿郡神辺村字木下に帰りて静養せられ、遂に大正二半四月十二日に帰幽せられたり。
是より先、満年は翁独特なる大日本言霊学の伝統を受け、是を基礎として古事記の研究を為せり。
即ち言霊学の大精神たる「天津日の光にまさる言霊のむすびのゐきをつぎうけて見よ」の極意を活用して、古事記の眞精神(古事記上表文に「事趣更長」とある)古言の真意を解釈し、是を「やあたかがみ」と題して大正二年十一月十六日 大正天皇 名古屋市に行幸の際、大石凝翁の著「大日本言霊」書と共に天覧に供せり(愛知県知事松井茂伝献)。
神書『やあたかがみ』
満年翁保存用のもの

次いで大正三年三月二十五日、宮内大臣府に「国華教育」の天覧の義を請願し、承諾を得て特別印刷して毎月献上せり。
 更に古事記研究の歩を進め言霊学と漢字の本義(説文)の研究を加へて解釈し、大正六年脱稿せるを以て浄書して「古事記眞釋」と題し、十二月七日 大正天皇に献上せり(臨時帝室編修官長股野琢伝献)。
大正天皇に献上された『古事記眞釋』

亦更に古事記を明徴に解釈せんと志し科学的研究に着手す。
茲に時代の急務として同志と共に皇道宣揚の会を開き、市内有名の各神社を順廻(毎月三回)講演せり。
此の時期に於て家業を子息に譲り、本名・満年と称し衷心斯道に精進せり。
然して更に古事記を明徴簡易に解釈せんと欲し研究を重ねたり。
大正八年ニ月、丹波国綾部町皇道大本教の教主・出口王仁三郎氏よりの懇請により毎月一回綾部に出張し、幹部役員(浅野和三郎氏等)に言霊学及び古事記の講義を為せり。
翌年七月、丹波国亀岡町(旧城址)大本数道場に於ける夏期大講習(十四日間)に臨み「古事記及言霊学」の講演を行ひ、以て大石凝翁の学説遺徳を宣揚せり。(翌十年、大本教は不敬事件を惹起す)
日夜研讃を進めたる科学的研究完成せるにより、之を「神聖遺訓として見たる古事記」と題し、小笠原長生子爵の紹介により八代海軍大将、杉浦重剛氏の題字、上田萬年博士の序文を得て、大正十三年一月出版(二千部)せり。
水野満年翁著 『神聖遺訓として見たる古事記』

是を 大正天皇 皇后陛下 皇太子殿下に献上し(小笠原氏伝献)皇族各殿下に贈呈せり。
又、八代大将の紹介により同志者に頒布す。
大正十四年一月、「国華教育」の題字を「大正維新」と改題す。
同年五月、八代大将を大正維新会の会長に推薦し、水野満年副会長となる。
翌年、八代大将枢密顧問官に任せられたるにより辞任せらる。
大正十五年一月、国雅本義により「大正維新に當りて」と題し、国運発展の大道を述べ、之を出版せり。
大正十五年四月八日、八代大将の斡旋により県会議事堂にて講演会を開く。講師大川周明、沼波武夫、安岡正篤の三氏。
昭和三年一月、会誌「大正維新」を「昭和の光」と改題す。
昭和四年五月五日、同志・歩兵大佐・箕形初太郎氏と図り、伊勢神宮、橿原神宮、桃山御陵の団体参拝を行ふ。
同六月五日、 昭和天皇 御即位記念として「御国体本義に因る国家経綸の大本・昭和維新の要諦(五綱)」を浄書し、 天皇陛下 に献上す。(小笠原長生子爵の伝猷)
昭和四年九月十日、明治神宮の団体参拝を行ふ。
途中、横須賀にて軍艦長門を見学す。(海軍大佐・幸田_太郎氏の案内)
昭和六年三月五日、日本建国の大祖・天孫還々芸命を祭る霧島神宮、高千穂峰登山、九州各神社の順拝の為め出発す。
七日、霧鳥神宮に着し五日間潜在、此の間、能勢霧島神官宮司に面談し、夜は神宮に参寵して古事記を奉読し、昼は高千穂峰に登山、古事記の講演を行ひ、神社の祭典に参列参拝せり。
次で権宮司同道し鹿児島神宮に参拝して鹿児島市に着す。
十三日、能勢宮司の紹介により小杉桓右工門氏に面会す。
翌日、小杉氏の案内により霊媒木村女史を訪ふ。
時に女史に神懸りて曰く「貴下の来るを待てり、今や将に日本の安危存亡の問題起るべし(九月に満州問題起る)、これ重大事変なり、速かに国家最高の当局に周到の用意をなすべきことを注意せよ、これ霧島神宮の霊示なり」と告らる。
茲に於て九州各神社の順拝を省略して直ちに上京の準備を整へ、東京に出発し、小笠原長生子爵に其の事情を語る。
子爵は熟考の後、之を東郷元師に神示の趣を伝達せられたり。
而して此の時、小笠原子爵は予め古事記研究発表に就て一条実孝公爵に紹介せらる。
故に、一条公爵邸に赴き謁見して古事記の主要点を述べ、国家的見地より研究せられむことを希望せり。
是に於て、一条公爵は昭和六年七月二十五日、同邸に於て、小笠原子爵、宮中顧問官・山口説之肋、神道管長・神崎一作、佐伯有義、千家尊健、野尻佑輔、田尻隼人諸氏十余名を会し「古事記研究会」の創立を図りて開講を決し、翌月より一条公爵邸を会場として毎月開催し、水野満年講師として約二十回に渉り続講せり。(三浦一郎氏は未だ学生時代、此の講義を聴講せられた由です。筧尚子記)
昭和八年六月十日、一条公爵に従ひ霧島神宮参拝、高千穂峰に登山せり。
昭和八年六月十日、一条公爵に従ひ、高千穂峰登拜の際の記念写真
中央が一条公爵、その右が水野満年翁

此の時、鹿児島市に泊し、県知事官民歓迎の宴を開く、霧島温泉に二泊す。(小杉氏斡旋)
昭和十一年三月、「昭和の光」か「照明」と改題す。(古事記天岩屋戸の段の字句を採る)
昭和十二年一月、政府に対し水野満年請願人となり、「古事記正解研究機関設置」の請願書を一条公爵を紹介人として貴族院に提出せり。
翌十三年一月、「古事記正解研究機開設置ノ請願書」を東郷実氏(鹿児島県撰出元文部次官)を紹介人として衆議院に提出せり。賛成人六百余名。
以後毎歳この請願書を提出す。
昭和十三年七月十日、「古事記上表文講義」を出版して、国体明徴、国家経綸の本義を明かにす。(印刷三千部)
昭和十四年六月二日、宇治山田市・猿田彦神社の清により、毎月一回出張し、古事記講義を行ふ。
昭和十五年五月十三日より三日間、名古屋市公会堂に於て古事記講話会を開く。
昭和十五年六月一日、紀元二千六百年記念として同志・宇治土公貞幹氏(猿田彦神社々司)と共に霧島神宮及高千穂峰登山、鹿児島神宮、新田神社、鵜戸神宮、宮崎神宮、宇佐八幡宮を順拝し、鹿児島市、桜島見学し、別府温泉に泊し八日に帰名す。会員五十一名(此の時、小杉桓彦氏斡旋の労を採らる)
昭和十六年二月四日、毎歳提出語願せる「古事記正解研究機関設置の請願」衆議院に於て可決採択せらる。
次いで翌五日、貴族院に於て可決採択せらる。
其の結果として翌年より、古事記を以て全国師範学校本科の教科書に加へられたり。
昭和十六年六月十七日、桑名市・天武天皇社に於て「古事記講習会」を開会し、一条公爵開会の辞を述べられ七日間継続す。
講師水野満年、講習員百二十名に講習証書を授与せり。(主催者、田島一・黒田豊也のニ氏)
昭和十七年十月十七日、大阪控訴院の命により、出口王仁三郎氏の不敬事件の鑑定人として召喚せられ、「言霊学の由来」につき尋問せらる。
故に古事記及び古今の文献によりて其の実証を陳述せり。
昭和十六年十二月十日、同志・有川廣氏の発起により「古事記研究会」を開く(水野満年斡旋)。会場を東京市と為し、其の都度上京せり。約隔月に開催す。
東京赤坂星が岡茶寮にて撮影

左より水野満年・白土千秋・東郷實・有川廣・山本信哉・倉野憲司・紀平正美・蓮沼門三・一條實孝・河野省三の諸氏。

昭和16年12月10日夜

賛成者は一条公爵、神宮大宮司・高倉篤磨伯爵、平沼騏一郎、水野練太郎、今泉定助、東郷実氏、研究者は山田孝雄博士、河野省三博士、山本信哉博士、久松潜一博士、紀平正美博士、水野満年等なり。(賛成者の方々及び研究者の方の中、記載に洩れた方々を記します。賛成者に蓮沼門三、白土千秋、佐伯有義、牧野秀、古川左京、長谷外余男、沢潟久孝以上七氏、研究者は筧克彦博士、宮地直一博士、植木直一郎博士、倉野憲司博士の四氏です)
此の研究会は十数回開かれ、其の目的は「政府をして古事記正解研究会の趣旨に添った機関を設置せしむる」為めの牽制運動である。 (昭和十九年、戦争の激化の為め上表文の完後中止せり)
昭和十八年正月三十一日、桑名市・天武天皇社に於て、古事記の祭典を行ひ、畏くも 天武天皇 元明天皇 稗田阿礼、大安萬侶朝臣、四社の尊霊を祭る。此の日は大雪なりしも、一条公爵、熱田神宮・長谷宮司等、百数十名参加さる。
昭和十九年四月、其筋の命令により「昭明」第四百二号にて廃刊せり。
明治四十二年発行以来三十八年継続す。
昭和ニ十年五月十七日夜、空襲の為め自宅は全焼し、県下中島郡祖父江町に疎闘せり。
昭和二十一年十一月二十三日、静岡県の島田市、増田秀国氏方に滞在、著述出版を為す(皇国経済の根本、他四種)。
昭和二十二年四月完了、帰宅。
嗣子明、豊橋市南高田町にて農業経営を為すを以て同居し、「晴耕雨読」の生活を為し、以て天寿を保てり。
(以上にて父の筆に依る略伝は終って居ります。筆者の弟・明は自衛隊に入隊、三重県久居町に居住同居中、昭和二十九年二月、新年宴会の為め招待されて出名、ニ日夜より発病、六日午前六時帰幽致しました。享年八十二歳)

【 水野満年翁 著書一覧 】

●『やあたかがみ』
●『古事記眞釋』
●『神聖遺訓として見たる古事記』
●『古事記上表文講義』
●『蘇生古事記』序・上・中・下巻』(遺稿により筧尚子、謄写版手刷にて出版)
『古事記上表文訓釋』    『蘇生古事記』 序・上巻・中巻・下巻



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