神祇伯太瓊傳 ( 門脇傳 )


古神道の道統は過去幾たびかの湮滅の危機を向かえつつも、天意によりかすかにその伝承を保って居るの感が在る。

この神祇伯太瓊傳(じんぎはくふとまにでん)も宮中に伝えられて居た、日本神道の精髄とも言うべき宇宙の大道・皇道の原理を示したものであり、細々ながら今日まで命脈を保って来た。

その内容は『古事記』の記載と『布斗麻邇御霊(ふとまにのみたま)』とによってはじめて解明される古神道の絶対の祕事・神拜における神我一体の祕伝「天津息吹(あまついぶき)・天津微手振(あまつみてふり)」をはじめ、「神籬傳(ひもろぎでん)」「五十連言霊(いつれのことたま)」「真澄鏡(ますかがみ)」「太兆傳(ふとまにでん)」等を典拠として皇室の祭祀を司って来た伝えで、あらゆる道の根本原理を示すものであると伝えられて居る。

『古事記』は和銅五年(西暦712年)正月、元明天皇の勅命により稗田阿礼の口誦・太安万侶の撰録により完成・献上されたものであるが、当時既に大陸文化渡来による古代思想湮滅を憂慮されての天武帝・元明帝のこ配慮に拠るのであった。

斗麻邇御霊は一名「火凝霊(かごたま)」とも言われ、『古事記』成立の前年、即ち和銅四年(西暦711年)二月、稗田阿礼が伏見稲荷に参詣の際、その祠内に奉奠したものと言われ、後年、荷田春満(かだのあづままろ)によって明らかにされたが、これは『古事記』の記録と絶対不可分のもので、師伝によれば、これが『古事記』を解く鍵であるとされて居る。

そして『古事記』完成の後三百十余年、六十五代・花山天皇の第一皇子・清仁(すみひと)親王が神祇伯王家を創設され、その御子・延信(のぶざね)王がこれを継ぎ、以来、同家は齋部・祝部・卜部・巫部を動員して、常に皇室の祭祀を司って居た。

これは大陸文化の流入や武家政治の擁立による古神道への長期間に亘る圧迫により、古代よりの行事・祭式・伝承の混乱・湮滅を恐れて勅命されたものと推察される。

その当時の状況下にあって、皇室の中に皇道の祕儀の煙滅を憂慮し、密かにこれを行じ、これを保持・伝承しようと努めた神人が幾人か居たのではないかと考えられる。

花山天皇の第一皇子・清仁(すみひと)親王もその一人で、特に親王はその第一人者であり、御自らこれを行じ、神祇伯再興の勅命にまで努力されたものと思われる。

そして、清仁親王の第一王子・延信(のぶざね)王に後一条天皇より勅命が下ったのであるが、白川神祇伯王家は清仁親王をを以て初代として居るのも、その間の消息を物語って居る。

その後、この神祇伯王家の伝は宮中深く神祕の行事としてとり行なわれ、民間には全く祕せられて、これを司るものは、ひとり臣下に降り王家の称を許されて居た花山天皇の直裔・白川神祇伯王家に限られて居た。

然し、幕末から明治の混乱期に故事来歴はその光を失い、宮中の神祇伯さえ廃されてしまったのである。

そして、その血統も三十三代・白川資長伯にまで及んだが、昭和三十四年六月八日、九十歳で逝去されるをもって絶家となった。

ところが、貴重な祕伝とその行事は、奇しくも天意と言うべきか、表面の系列から離れてその霊統を保持・伝承されて来たのである。

それは、前記白川資長伯の三代前、即ち伯王家第三十代・雅壽王を経て、その門下の国学者・青柳種信翁に伝承され、更にその門下の辛島並樹翁に伝授され、三世・鬼倉足日公翁を経て、恩師・門脇稜日公へと伝承されて来て居る。


【 道 統 】

〔 神祇伯 雅壽王 〕

神祇伯初代・延信王から数えて三十代・雅壽王は、八百年余、代々宮中の祭祀を司ってきた白川神祇伯王家の当主であったが、幕末の混乱期に家傳の祕事の煙滅を恐れ、門人で国学者の青柳種信翁にその精髄である太瓊傳を継傳した。これによって日本神道の枢要は滅失を免れたのである。

雅壽王は又、当時、都にあって名声の挙がって居た神道家・山口(杉庵)志道とも親交があり、その著書『水穂傳』に序文を載せて居る。

雅壽王は神祇伯家に伝えられて居た所伝から、『水穂傳』の「天降在神寶邇志天(あもります、かんたからにして)」「其珠能眞珠在(そのたまの、またまなる)」ことを観取されたのであろう。

この『水穂傳』に「布斗麻邇の御霊は水火(いき)の傳にして」とある通り、息吹の伝えこそ日本神道の宗傳であり
、布斗麻邇御璽こそ、日本文化の基となるものである。

山口(杉庵)志道著『水穂傳』全八巻及び直筆本『神風伯本書』『火水與傳』『神風濫觴』『三輪之神霊』『古今傳授三木三鳥』
同『神風伯傳』神霊図
山口(杉庵)志道は家傳のこの御霊図と布斗麻邇御璽の研究によって『水穂傳』を完成したものと思われる。


〔 青柳種信翁 〕

青柳種信翁は、明和三年(西暦1766年)福岡藩足軽・青柳勝種の次男として生まれ、初名は種麿又は種満と言い、通称は勝次、号は柳園と称した。

本居宣長門下の国学者で、藩命により『筑前国風土記附録』や『筑前国続風土記拾遺』の編纂に携わった他、筑前国学の泰斗として学徳一世に高く、神道の普及や地域研究に力を注ぎ、『後漢金印考』等、考古学分野の著作も多く残して居る。

神祇伯雅壽王とは遊学の為上洛の砌り結縁されたと思われるが、この伝の煙滅を恐れた雅壽王の命により相伝され絶伝の難を免れたのである。

そして、この伝は辛島並樹翁へと継承されるに到ったのである。

天保六
年(西暦1836年)十二月十七日、病を得て、七十歳の天命を全うされた。


〔 辛島並樹翁 〕

辛島並樹翁は、諱は勝敏、姓は辛島氏、筑前福岡の人、世々黒田氏に仕え、父は勝昌と曰い、母は杉原氏、襲ぎて喜太夫と称した。後、並樹と更める。

安政元年、学館の教師補に充てられ、二年、目付役と為り、文久二年、軍事用掛と為る。此の時、天下多事にして,勤王佐幕の論が巷に起り、各党を分って争うも、翁は清流を保ち辞職を請うも許されず、明治元年、修猷館副訓導、翌年、訓導となり専ら皇典を司った。

明治七年、崎八幡宮祀官に任ぜられ、十一年、病を得て免ぜられる。その後、旭櫻学舎を築き、後進の育成にあたったが、その徳を慕う門人に溢れたと言う。

明治三十年七月九日、病を得て、七十四歳の天命を全うされた。(以上『辛島並樹墓誌』による)


〔 鬼倉足日公翁 〕

明治十二年五月五日、福岡で出生。

通称は重次郎。

「頭脳明晰、識見卓抜、而かも熱列火のごとき実行力を持つ快男児だ。・・・幼にして福岡の碩学・正木昌陽、辛島並樹、瀧田紫城諸先生の門に遊び、特に皇学に造詣深い人物である」と同郷の先輩・頭山満翁が評したほど、無欲・廉潔・清純な人格者であった。

神祇伯傳直傳二世・辛島並樹翁より、皆伝奥許の印可を受け、足日公の道名を受ける。

若いころ政治運動に関わり、天下を衝動させるほどの事件を引き起こしたり、「天照皇大神宮」の幟旗を立てて廻ったこともあった。

この事件は警察沙汰となり、投獄される危機を招いたが、川面凡児翁が「彼を失っては日本の貴重な伝承が無に帰す」と嘆き、当局に助命・嘆願を行った。

明治から大正にかけて神道界に新風を吹き込んだ川面凡児翁が、師事した鬼倉翁を如何に高く尊敬・評価して居たか、この一事でもよく判る。

翁は生前、門脇清(稜日公)、長井吉五郎、佐々木精治郎(和日公)の三名に奥傳及び道名を授けた。

昭和三十五年十月二十八日、静岡県熱海市伊豆山の皇教本院大管長として、八十一歳の天命を全うされた。

著書に『日本生命の雄叫び』『生命の甕』『禊祓と皇道原理』『天津微手振神言傳』『太兆判例』などがある。

鬼倉翁の創設された「すめら教」は現在、静岡県熱海市で継承・活動されて居る。

昭和十八年八月五日付『信の日本』(第百二十二号)誌上に掲載された「神籬奉齋行事・禊祓天津御手振天津息吹の講習會員募集」の内。
同上『禊祓と皇道原理』の広告
信の日本社同人に子爵・三室戸敬光、平田盛胤、四宮憲章、竹内智信、皇教総長・鬼倉足日公、陸軍少将・羽入三郎、和田玄之、長井吉五郎、佐々木精治郎、加藤顕一、門脇清、門脇誠二、船久保義榮、金澤畝雄、立石榮太郎、鬼倉静子、前田松代の諸氏の名が列
ねられて居る
鬼倉足日公著『禊祓と皇道原理』
(門脇師に特に自筆の題箋を附し
授与されたもの)
同『天津微手振神言傳』

〔 門脇稜日公翁 〕
明治三十七年二月十一日、秋田県仙北郡角館町で出生。

本名「清」。

大正末期から二十年間、キリスト教伝道。

昭和初期から、日本文化・神霊・神道の研究に入る。

昭和十五年四月十日、神祇伯直傳三世・鬼倉足日公師より、道名「稜日公」の「司教」の許状及び『天津息吹伝書」受ける。

昭和十七年十月三十日、神祇伯王家第三十三代・白川資長伯より、鬼倉足日公師副書にて「示教」の許状を受ける。

昭和二十五年四月一日、鬼倉足日公師より「太瓊活断」の免許状及び「太瓊傳書」を受ける。

昭和二十八年、大日本茶道学会・田中仙樵宗匠より「台子免許」の許状及び「泉樵」の茶名を受ける。

昭和六十年十月十日、病を得て、八十二歳の天命を全うされた。

主な著作に『太瓊傳図録』(私家版)、『神祇伯傳フトマニについて』(『さすら』誌掲載)、『布斗麻邇』(同誌掲載)、『太瓊傳(奥傳)』(山雅房刊)『太瓊傳(初・中傳)』(現代
神道の會刊)がある。

    
〔 石田瑞日公 〕 

昭和二十四年、愛知県名古屋市に出生。

昭和58年より門脇稜日公師に師事。

昭和59年、師命により現代神道の會を創設し、神祇伯太瓊傳の継承・実践に努める。

昭和59年10月1日、門脇師より「瑞日公」の道名を拝受し、神祇伯太瓊傳(門脇傳)の道統を継承する。

昭和61年9月、道統継承を紀念して、『太瓊傳』(初・中傳)を刊行する。

同傳関連の著作に『神祇伯太瓊傳』(月刊『みそぎ』所載)、『みそぎ行事入門』(同前)などがある。

左は門脇師形見の狩衣・烏帽子・笏を着用して先師十五年祭(平成12年10月10日)を行った際のものである。






【 神祇伯太瓊傳の内容 】

その内容は、門脇師伝によれば、次の如き内容を含んだ千古不易の一大真理の闡明であり、宇宙の大道を示す〈太瓊傳〉と言うものである。

1、占法(太兆)による宗教的祕儀

2、天津息吹(あまついぶき)による体的・行的祕儀

3、天津神籬(あまつひもろぎ)による象徴的祕儀

4、天津金木(あまつかなき)による言霊学的祕儀

5、真澄鏡による音義学的祕儀

6、器教による形象的・行的祕儀

7、文字による文化的表現

更に、神国築成のための呪術的祕儀をも含むものであり、祓禊として皇道の原理を顕示するものである

[ 布斗麻邇御璽(ふとまにのみたま) ]

この図は布斗麻邇御璽、一名〈火凝靈(かごたま)〉とも言う。

太安万侶は『古事記』三巻を完成し、時の御門・文武天皇に献上したのが和銅五年正月二十八日であることが、その序文によって知られる。

『古事記』は稗田阿礼への勅命によって成れるものであるが、此の『古事記』完成に先立ち、和銅四年二月、伏見稲荷御示現の際、稗田阿礼によって此の御璽が同祀内に奉奠されたもので、後年、同社務・親友卿の家傳として伝わって居たものが荷田春満によって発見され、世に明らかにされたものである。

此の御璽は「布斗麻邇御璽にト相(うら)へて天地人の初発(はじまり)を知る御傳」であり、神我一体の行である天津微手振・天津息吹の根本原理、天津神籬の傳なのである。

これは即ち、拜神の根本行事であり、更に日本武道の真髄であり、日本礼法の基礎ともなるものであって、日本文化の核心をなすものと言っても決して過言ではない。

日本武道の兵家帳中の珍祕とされる『龍虎二巻』の寶典とともに口伝される三才一貫の口伝・身伝たる一│十卍◯(いっこん・じゅう・まん・ゑん)の祕伝も、この御璽の発露に他ならない。

そして、これが宇宙観・国体観・人生観、更に宗教的には汎神的一神観、即ち全神観の根本をなすものなのである




太瓊伝書 鬼倉足日公直筆の太瓊伝書の一部

[ 神籬奉齋行事天津微手振・天津息吹 ]  



神祇伯太瓊傳の枢要をなすのがこの天津
息吹の行法である。

全ての神事は、この天津息吹により布斗麻邇御璽を我とわが身に体現することにある。

その為に息や体の使い方など、詳しい口伝が伝えられて居る。

この天津神籬奉齋行事こそ日本神道の宗傳をなす最重要の行法である。
[ 太兆傳 ]             
      

占法としての太瓊傳を太兆傳と言う。

古来、これは弥栄傳としての亀ト・弥彦傳としての鹿トによって行われて居た。

門脇師はこれを現代的に行える法を案出し制
定された。

然し、その本質は神我一体となす神籬奉齋行事・天津息吹の発現であることに変わりはない。

倉足日公師直筆の『太兆祝詞』
( 占法としての太兆に用いる甲代・眞智駒・眞智袋 )
これは門脇師が、古傳のままに太兆を行うことが困難な為、
鬼倉師と諮ってこれを使うこととしたものである。


以上

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