『 本朝武道論 』 抄録

本日、平成15年3月18日(火)日本時間午前10時、アメリカ合衆国ブッシュ大統領が対イラク最後通告を発したことについて大いに感ずるところあり、日本武道の精神こそ「武」と云うものに関わる全ての人の知るべき必須の事項であると信じ、これを訴えるべく、ここに本抄録を公開させて戴くものであります。   


はじめに

本書は『修禊要録』の講義録の内、日本武道に関するものをまとめたもので、武道を修める人は勿論、武道に直接縁のない方も是非読んで戴きたいと思います。
何故なら、武道と云うのは神道に全く関係ないかと云うとそうではなく、日本神道の一つの表現、一つの流れとして存在して居ると思われるからなのです。
ですから勿論、神道を修めんとする人は、日本武道とはどう云うものであるかと云うことを、細かい業に関してではなく、その本質である〈神武〉の精神についてだけは把握しておいて戴きたいのです。
そして、日本武道と云うものは、決して野蛮なものではなく、日本精神を顕現するするすばらしいものだと云うことを理解して欲しいと思います。
何故なら、これこそ日本が世界に誇れる霊的文化遺産であり、永遠に継承して行かなければならないものだと思うからです。
本書によって、一人でも多くの方が正しい武道の在り方を理解し、その真髄に本格的に参入する機縁となれば、これに勝るものはありません。

石田盛山

祓へやる やまとみかどの 剣太刀(つるぎたち) 禍なかれとぞ いつも挂(かか)れる。

人の世に 禍なかれとぞ わが岐美(きみ)は つねにもがにも 祓へますなる。


一、日本武道は神武を体現するものである。神武とは、不殺を旨とし、あらゆる禍津毘はその時・処・位を乱したに過ぎず、これを懲らしめ戒めることにより、本来の時・所・位に立ち還らせることをその目的とするものであり、活人剣を以て本旨とする。

二、唯単に、己れの強さのみを誇り、己れの欲望を満たす為、つまり自己拡大・自己防衛の手段として行なわれるものは凶武と云い、殺人剣と云う。

三、武とは、巷間云われるが如くの「止戈」の義ではなく、「二・止・斧(ここに斧の形の神象が入りますが、字がありませんので仮に斧としてあります) ・ヽ」の合義であり、「二」と云う対立観より起る魔想妄念の火「止」を斧「斧の神象」によって裁断し、個我を滅却し「ヽ」、一切の対立観より脱却して大宇宙意識と繋がることを示す。

四、故に「武」は神性を有するのである。神性を有しない武力は小義の武であり、本来の武ではない。武は神事であり、身魂齋であり、神道を具現するものである。

五、現今行なわれて居る武術・武道は、殆どが室町鎌倉時代以降に起り、幕府・諸大名の自己防衛・自己拡大の為の手段として存在・発達して来たと云われて居る。つまり、私兵的戦闘術として伝承されて来たと云うのである。果たしてそんな程度のものなのだろうか。否、違う。

六、本来の武は 大天皇に帰一し奉るものである。 大天皇とは、地上世界の中心としての存在であり、文武二徳を兼備されるところから「允文允武」とも尊称されるのである。その 大天皇の大御業に随順し奉るのが日本武道なのである。

七、この 大天皇に帰一し奉る真の武道は「天眞正傳」や「天眞傳」「天眞兵法」と称され、日本武道の根幹を成して居るのである。

八、ではこの「天眞正傳」「天眞傳」「天眞兵法」とは何か。それは、武を煉ることにより大宇宙意識と繋がった状態、及びその境地に於いて発揮される或る神通力のことである。その神通力を得た人と対峙すると、全身がその気に包まれた様な感覚となり、身動きすら出来ず、且つ、闘争心も消え失せてしまうのである。これは、無差別平等の全一観に立脚して人に対峙した時起こる共通の感覚で、ひとり武道に限ったことではなく、何事でも、超感覚の世界へ参入し、同様の境地と成った人は同じ気を放って居るのである。

九、この「天眞正傳」「天眞傳」「天眞兵法」を司る武門を「天津鞴韜(あまつたたら)武門」と云う。「天津鞴韜」とは、形而上の火炉の操作、つまり煉丹・修養して宇宙エネルギー(気、ミソギではヒ)を操作することを云い、これが武の起源なのである。

十、武門の初めは大伴の久米部(くめべ)と饒速日(にぎはやひ)の物部(もののべ)である。大伴の久米部は杖を持ち、饒速日の物部は剣を執り、皇居を侍衛した。これより武門は起ったのである。それは神武を旨とし「武は道(身魂齋)を行うものである」との理念に基づき、大義の為の武の発現のみを遂行したのである。

十一、大義の為の武の発現をするには、自らが大死一番し、生死を超脱して居なければならない。生死を超脱するとは、身命を捨てて大道に生きることである。大道に生きる時は天下無敵となる。

十二、天下無敵とは、天下(この世)で一番強いと云う意ではなく、一切の対立観念を払拭し、無差別平等の全一観に立脚した境地のことを云う。

十三、それは超感覚の世界に生きることでもある。武道の修行は超感覚の世界に最も入り易い道である。超感覚の世界に入った時、武は神事となる。

十四、故に、真の武道を修めた人に横変死はないのである。何故なら、神事を行い得るものは大死一番して居て、螺旋波動を放って居るからである。螺旋波動は調和波動とも云い、周囲の波動を修理固成し、一切の禍津毘(まがつび)を調伏・濟度・救出・誘導・摂入して本来の状態に還らせるものであり、螺旋波動を放って居る人には横変死と云う鋭角波動は同調しないのである。

十五、自己の強さのみを誇る為の武術、つまり凶武を行って居る人は、その周囲に鋭角波動を放って居る。鋭角波動は禍津毘を増幅させ、自らの周囲に事故・災難・病気・横変死と云った逆境を造り出し、これに縛られ、一生を無為に終わることとなる。

十六、人間として、幾ら他人に強くても、自らの人生を滅ぼしてしまうような武術、これを凶武と云う。意識が接地執着層にこびり着き、この世での対人的勝利・名声・財産の獲得のみをその目的とする武術(俗武)は決して行うべきではない。

十七、そのような俗武道家と交わるな。そのような俗武道界を超脱せよ。そんなことをして居たら、自らの天職(あまつつかさ)を全う出来ないばかりか、その人生も狂わされることとなる。

十八、真の武道は螺旋である。自己の中心(身中主)より発動する螺旋力は周囲に放射し、鋭角波動(禍津毘)はその螺旋に取り込まれ、誘導され、自ら崩れて行くか、或いは螺旋波動に同調して敵対心を消滅してしまう。これを神武の真髄とする。

十九、みそぎで行う「舞」や「歌」も同様である。舞いの動線、歌の響きは螺旋波動であり、これにより禍津毘(鋭角波動)を修理固成するのである。

二十、天鳥船神事もこの螺旋の妙用により行われる。更に、建御雷(たけみかづち)と経津御魂(ふつみたま)の働きが相俟って神界が築成され、神人が産出されるのである。

二一、建御雷は言霊の奉称により空中電気を凝縮させる働きを云い、経津御魂とは氣吹(いぶき)により大気中の空中(宇宙)電気を体内に摂り入れる働きを云う。そして、体内に摂り入れた空中(宇宙)電気を螺旋運動により光とし、更に煉り上げてゆくのである。

二二、光を煉り上げるのは螺旋運動により行われる。人体の全ては螺旋構造であり、又その動作も螺旋運動なのである。つまり、人が行動すれば自づと体内に電気が起りそれが煉り上げられる仕組みになって居るのである。

二三、人の歩く動作、この一見単純な動きを見ても、足の先から手の先、頭の先まで、全ての関節は一節毎に互い違いに捻られて動いて居る。足・下腿・大腿・骨盤・脊柱・肩甲帯・上腕・前腕・手・頭と、その全ての関節が見事な程に一致協力して発電し充電して居るのである。

二四、我々はこのことをもう一度、再認識しなければならない。本来の人間の機能、これを正しく把握出来なければ、正しい生活など出来るはずはないのである。ましてや、武術などまともに行える筈もない。何故なら、真の武術は、正体から更に彊体を築いて居なければ、とても成し得るものではないからである。

二五、人体が正しく発電し、変電し、送電し、充電された時、零穂凝(ぬほこ)の力を得たと云う。零穂凝とは、大宇宙に遍満する宇宙電力(御雷・ミカヅチ)を体内に摂り入れ我が力とすることを云う。

二六、この零穂凝の力のほとばしりをツルギ(剣)と云う。調和波動を乱す禍津毘を懲らしめ戒めるには、このツルギ(剣)を以て行うのである。人体の中心(八間田宮)より発する宇宙電力(零穂凝)を両手より紫金色の光線として放射し、禍津毘を帰服させるのである。これがツルギ(剣)の濫觴である。

二七、次第に人間の霊力が低下し、体内電力もまた低下するに及び、本来のツルギの力を発揮することが困難となった時に、後世、その神象に象り創られたのが刀剣としての「剣」である。

二八、故に、剣は本来、禍津毘を調伏・済度するための神器である。日本武道を代表する「剣術」は、神器である剣を執って禍津毘を懲らしめ戒める神事なのである。これを忘れて、個々の勝敗みの追求に明け暮れる単なる剣術は、本来の面目を失った俗武術てあり、世の害となるものである。

二九、武術には必ず、気合を用いる。気合とは、雄誥(をころび)のことである。雄誥とは、零穂凝の力を身体の中枢(八間田宮)に納めて、そこより言霊の音力を発声し、禍津毘を調伏・済度・救出するのである。

三十、修禊では「イーエッ・エーイッ」の言霊が使われるが、武術では、イ・エ・ホ・サ・ウ・ハ・ト・ンの音の組み合わせが用いられる。

三一、「イーエッ」は調伏、「エーイッ」は済度・救出、「ホーッ」は突出、「サーッ」は誘導、「ウ」は凝縮、「ハーッ」は分派、「ハッ」は裁断、「トウ」は消散・滅却、「ハン」は漏気と云うように、それぞれの目的に依って使い分けられる。

三二、武術に九字の法を用いることがあるが、これは空零世界を築くものであり、みそぎで云えば火神事(ひのかみのかみわざ)に当たる。つまり、一切を祓除し大死一番することを目的として行なう祓の行事であると云える。

三三、その本尊は摩利支天とされて居る。摩利支天は密教で云う天部の神で、常に日輪の先を駆けると教えられて居る。日輪の先を駆けるとは、光よりも速い存在のことであり、これは日本神道で云う饒速日尊(にぎはやひのみこと)のことである。

三四、饒速日尊は、邇邇岐尊(ににぎのみこと)が表神道を司るのに対して、裏神道を司る。裏神道とは、表神道が光エネルギー世界の造化原理を示すのに対して、超光速エネルギー世界の造化原理を示すのである。

三五、裏神道の世界は、通常我々が認識する世界とは全く逆の世界である。重いもの程その運動速度は速く、軽いもの程その運動速度は遅い。故に、この世界に罪科・垢穢(つみとが・あかけがれ)を送ってやれば、たちどころに消散する。どんな罪業でも、ここでは無に帰すのである。

三六、日本天皇大祓の神儀は、この裏神道あってこその神儀である。そして、これを司るものが饒速日尊なのである。大天皇たる邇邇岐尊を裏で支えるのが饒速日尊の司る裏神道なのである。

三七、佛教渡来以降、饒速日尊は摩利支天に置き換えられ、武人達はこぞって、この摩利支天を尊崇した。それは、己れが殺めた人々の身魂を供養すると共に、人を殺したと云う罪業を、摩利支天、即ち饒速日尊の功徳にすがり、祓除し、消滅せんとする悲痛な信仰であった。決して、己れの武技の上達を願ってのものではなかったのである。

三八、故に、本朝武門では饒速日尊を祭るのである。饒速日尊の稜威により大死一番し、己が意識を個我より大我へと移行・昇華出来れば、大宇宙と一体となり、大天皇の大御心と一体となるのである。

三九、この境地に至れば、武は個の満足の為のものではなく、いざと云う時、公の為に身命を賭して働く時にのみ用いるものであると云うことが自得されるのである。

四十、公の為に身命を賭して働くものには罪障は無い。神武のみを発動するものには天返矢(あまのかへしや)は当たらない。つまり、仮令、止む無く人を殺めたとしても因果応報の理は発動しない。然し、これは誤解され易いので祕事とされて来たのである。

四一、九字の法が空零世界を築くのに対して、十字の法は実在世界を築くものである。つまり、神界を築成するものである。古来、九字は教えても十字は伝えるなとされて居るが、真の十字は神事なのである。俗間に流伝するものは、九字に「天・龍・虎・王・命・勝・大・日・水・鬼」などの一字を加えたもので雑行であり、みそぎでは、この雑行を甚だしく嫌うものである。

四二、十字の法は+と◯とを描くのである。+はヒモロギ・イハサカで、縦と横、中心と外郭、君と民、男と女、主と従、善と悪、美と醜、正と邪を示し、これを◯によって取り纏め、中心帰一の神界を築き成す神事なのである。

四三、九字の法、十字の法ともに饒速日尊(にぎはやひのみこと)の神伝として伝えられるものであるが、饒速日尊の神伝で最も重要なのは「十種神寶」である。これは自らが饒速日尊となる法であるが、これこそ天津鞴韜(あまつたたら)の煉丹修法なのである。

四四、「天眞正傳」「天眞傳」「天眞兵法」は即ち「十種神寶」の成就した暁における〈武〉を教えたものであり、これこそが日本武道の核心なのである。故に、日本武道は神事であり、神武を体現するものであると云えるのである。

四五、然るに、今日の武道を鑑みるに、この無上の大極意を忘れ、只徒に武の末技にのみ耽溺して、単に競技としてのスポーツと化し、或は古武道として、その形のみの伝承に終止し、皇国武道を死物と為してしまって居る。誠に感歎すべきである。

四六、「神はすべての人間の中に住んで居る。然し、すべての人間が神の中に住んで居る訳ではない」とは古老の言であるが、我々はもう一度自己の中に住む神を自覚し、再生し、固成し、神人となって神界に住すべきである。これを、武を修めることによって為すのが武道なのである。

四七、この神武を修めることによって、小人をして君子たらしめ、匹夫をして大丈夫たらしめ、衰家をして盛家たらしめ、弱国をして強国たらしめることが出来るのである。つまり、修身・齋家・治国・平天下を〈武〉によって行なうのである。これを武徳と云う。

四八、これを心得ずして武を講ずれば、その教えは徒に空転し、神事ならず人事に陥るのみならず、禍事とさえなるのである。師たるもの、その教える所以を知らず、弟子たるものも亦、その学ぶ所以を知らぬと云う教育上の大欠陥を生ずるのである。

四九、要するに、神代より現代まで継承され続けて来た日本武道は、個我を滅却し大我に帰一する。つまり、大天皇たる日本天皇に帰一しまつる大義武道であることをもう一度再認識し、これを実行することが肝要なのである。旧来の武道の短を捨てて長を採り、且つ国体に淵源する正しい武道が再建設されなければならないのである。

五十、正しいとは一に止まることである。一とは生々化々、与えて求めない無尽の慈悲であり、一切存在の根源であり、神理に則った整然たる秩序であり、始めなく終りなき大宇宙生命のことである。この一に則る事こそが正しいことであって、人間の住む差別相対界にあっては正は存在しない。
故に正となるためには、二元相対の物質界を超脱しなければならない。必滅の相対を越え、無始無終の一なる絶対界(天祖・あめのみおや)に再生出来れば、心は揺るぎない「静」に落ち着き、そうなると人間本来の相は大天皇に帰一して居ることが解る。

〔 結語 〕

神と共に住み、神と共に思い、神と共に語り、神と共に行動して居た太古素樸の時代の意識に還ることが出来れば、一切存在の根源である天祖の造り給うた萬類萬物・天地一切が、天津神・国津神として背後に控え、共に行ないつつある事実に気付くのである。
この『我、神と共にあり」の意識を以て、先師・祖師・流祖など、あらゆる先人の身魂を我が背後に観じつつ行なうことこそ、日本武道の祕鍵であると信ずるものである。


以上、抜要五十項は各章の総論です。詳しい解説については拙著『本朝武道論』をお読み下さい。


【 追記 】
兵法・武道の原則は後の先である。
先に動けば必ず隙が出来、破れること古今の定石である。
米国の対イラク先制攻撃は如何なる将来を産出するか、その行方を今後じっくりと見据えつつ、我が大日本天皇國の復興・再建に思いを致さなければ
ならない。


日の神の 神業なりて 眺むれば 黒雲さへも 道開くなり。



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