濱地光一師範を偲ぶ

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恩師・濱地光一先生は、誰にでも分け隔てなく、常に真心温れる渾身のご指導をされました。
その先生との日々を偲び、私なりの先生との思い出をここに述べさせていただきます。


                      石 田 博 昭

先ず、一番印象に残って居るのは、入門してまもなく、十七才の頃のことです。
何についてかは忘れましたが、先生の教えに対して反論を申したことがありました。
その時、先生は「そうか、それなら君は免許皆伝だ。もう、修行しなくてよいだろう」と言われました。
私は思わず「ハッ」と緊張したのですが、先生はそれを逸早く見られてか、何も言われずに続けてこ指導下さいました。
それ以来、「修行とは肚の修行、どんなことでも一旦は肚に入れて、しかる後、自らの鍛練により覚ることなのだ」と、当時、高校生の私は修行者としての第一の心構えを厳しく心に刻みました。

また、先生の晩年、七十才位の頃、一心寺道場で杖の「影」の「細道」の稽古の時、先生が杖、私が打太刀で、私が先生の構えた杖の先を斬ってゆくと、先生の杖がその太刀を外して私の脇腹を突く瞬間、先生の杖の先が私に当る直前、私は急に気持ちが悪くなって、全身の力が抜けたような感じになり、背中がゾッとして、思わず形を止めてしまいました。
怪訝な顔をされる先生にそのことをお話すると、「おそらく気で当たったのだろう。そんなこともあるのかな」と言われたので、私が「宮本武蔵が振った太刀風を受けただけでもぞっとしたと言うことを聞いたことがありますが…」と申し上げると、「それかも知れんな」とおっしやいましたが、今だに、あの時の感覚が私の身体に残っていて懐かしく思われます。
また、気については杖の練習中、本手打ちで決めた後、よく「夢想流の極意は杖の先より気がほとばしり出るものがそれである」と白井亨の赫機術を例にして説明していただいたことも思い出されます。

それから、先生は武道とスポーツの違いについて明確に区別されて居ました。
「スポーツは負けても死なない。武術はもし負ければ即死か大怪我をする。相手だけ倒して自分だけ無傷で助かろうとするような勝手な考えでは武術は出来ない。もし負ければ自分は死ぬのであるから、自分が勝てば相手を倒させてもらう。皮を斬らせて肉を斬り、肉を斬らせて骨を断つだ。この覚悟で励むことが、やがては生死を脱却して、天地と繋がったとき真の武道にまで到達するのである。
現代人を見ると、失敗しても責任をとらず、言いたいことだけ主張する傾向がある。これは全く人の道に反する。命を賭しても責任ある行動のとれる人物を造り出すのが武道である。特に杖は、古事記など日本の古典にある天沼矛を象ったものであり、人を瘍つけずに導くことの出来るすばらしい武道である」と常々おっしゃって居られました。

また、先生ご夫妻には、昭和五十年、媒酌の労をお願い申し上げました。
式の日、先生ご夫妻を車でお迎えにあがった友人は、「車の中でいろいろお話を伺ったが、君はすばらしい先生に就いているな。あれほど弟子のことを思っている師匠は少ない。また奥様も神々しいくらいの気品があり、さすが先生の奥様だ。全く君は幸せ者だよ。」と羨ましがっていました。
この友人は、後に先生と木曽御嶽山の清滝での修行にも何回か同行し、先生の金剛経読誦の真剣さ・烈しさに驚き、自分の未熟さを反省し、益々、先生を畏敬致しておりました。

昭和五六年七月十九日、先生の古希祝賀パーティを名古屋市千種区の王山会館で門人二十名が集い行なわれました。
この時、先生は大変お喜びになられ、皆に「九思」の書を下さいました。
これは丁度この時、先生は伝書の再読と、そこに書かれてある通りの修行をすることが流祖・夢想権之助勝吉に近づく道と考えられ、後目録に「百ケ日の精進」とあることから、金剛経読誦百日の精進をされている最中でもあり、後目録にある「九思一言思うべし」の九思を論語の中から抜き書きされたものでした。また、この百日の精進中に『神道夢想流妙語之巻』を入手され、そこに書かれてある方法にしたがって修行しようとされて居ました。
古希パーティの席上、コップの水を揺らせる、コップを割る、バランス訓練などの念力の修行が百日間の精進によって成ることを『神道夢想流妙語之巻』と言う伝書に書いてあると話されました。
先生の古希を祝う会にて 全員に『九思』の書を戴く
席上、私には「石田くん、これがわかるか」と申され、一枚のメモを差し出されました。そこには伊賀流忍術の兵糧丸の処方が書かれてあるので、私は「先生、これは見たことがあります、そうです確か伊賀流忍術の兵糧丸です」とお答えすると、先生は「これが百日の精進の食糧なのだが作り方が分からない、君分かるか」と申されたので、「よく調べてきます」と、そのメモをお借りして家に帰って調べてみてビックリ。
『萬川集海』記載の兵糧丸と分量から配合の順序まで全く同じものでした。
七月二十三日、門入一同から先生にお贈りする稽古着が出来上がったのでお届けしたところ大変喜ばれ、思いがけなく例の『神道夢想流妙語之巻』を拝見させて戴くことが出来ました。
やはり『萬川集海』記載の処方と全く同じで、先生にその旨をお話すると、「どうも杖使いは忍者と関係があったかもしれないな」と申され、昔、戦争で焼けてしまった濱地家の伝書の中にも忍者の体術のようなものが書かれてあったこどや、黒田藩の杖術師範が城の屋根の上で刀を振リ圓している乱心者を杖一本で制した話があるが、これも忍びの技を身につけていてこそ出来たのだろうなどと話されました。

けれども、いざこの兵糧丸を作るとなると材料や季節の関係もあり実際には難しく、先生はこれを諦められ、そのかわり生グサは一切食べない精進食で百日間、金剛経の読誦と杖を振ることを中心に、更に、『神道夢想流妙語之巻』に書かれている文武両道に達する為の気、即ち念力の修行を試みられたのでした。
その結果「地球上、萬物全てのものにその質量に応じ平等に作用している絶対の力、即ち引力に素直に従い、これを通して萬物一体なることを感得しつつ、天の気と地の気を己れの丹田に集め、真直に坐ること、真直に立って本気に歩くこと、これが全ての物事を為す所の基本の姿であることを知ったのであります」(『金剛経百日読論体験記』)と悟得されたのでした。

また、この百日行の間に木曽御嶽山へ登拝され不思議な体験をされたのです。
それは木曽御嶽山五合目にある清滝に行かれ、滝をさりげなく写真に写したのですが、帰って現像してみると、清滝は不動明王となって写っていたのでした。
先生はびっくりされ、御嶽教の先達に相談したところ、写真とネガを滝に返すように勧められたので、九月十三日、私を供に連れて清滝へ行き、行者堂の祭壇に写真とネガと金剛経十巻と金一封を奉納されました。
その時の行者堂での先生の読経の迫力は凄まじく、平生物静かな先生とはまるで別人の如く、物凄い迫力で、たまたま参拝に来ていた見知らぬ信者から御加持を頼まれ、先生は平然と金剛経で加持されたのですが、自らではなく、おのずと人から加持を依頼されてしまう先生の姿に、私はかけがえのない素晴らしい師匠を持った喜びで感動したことを思い出します。
それから一月程後の十月二四日、二五日、先生と共に五、六人で木曾御嶽山へ合宿に行った折に先生は「一応、宮司さんに話をしておいたほうが良いだろう」と、御嶽神社の滝宮司にその話をしたところ、行者堂には何もなかったとの返事を聞き、先生は「消えてしまったのだろうか」と不思議に思われておりましたが、「金剛経に『一切有為の法は夢幻泡影の如く、露の如く亦た電の如し、応に如是の観を為すべし』とある通り、これでよかったのかも知れない」とおっしゃって居られました。
木曾御嶽山8合目にて
中央、杖を着いて居られる先生
その左、白い服を着ているのが筆者

この合宿の帰り、先生をご自宅までお送りした時、『神道夢想流妙語之巻』を鉛筆で写されたものを出され、「夢想権之助流祖もこの修行をして悟りを啓いたのかも知れない。君は単細胞だからひょっとすると出来るかもしれない。これで修行してみなさい」と、それを下さいました。
以来、この『妙語之巻』の修行を続けて居ますが、その後にも、先生のお供をして清滝へ行った時、私は『妙語之巻』の呪文を唱えて滝行をし、その間に先生は滝の前で杖を独りで振って居られました。
そして「この清滝が何だか流祖・夢想権之助勝吉が修行した地に思われる。滝の前にあるコンガラ、セイタカの二童子は夢想権之助が竈戸神社に三七日参籠の満願の夜、夢の中に現われた童子のような気がする。夢想権之助はもともと木曾の出身と言う説もあるくらいだから、ある時期ここで修行されたかも知れない」と申され、ここで五夢想を使い、流祖の心に少しでも近づこうとして居たことをお話し下さいました。

『神道夢想流妙語之巻』は建治二年(西暦一二七六年)に中村弥治郎角山と言う人が山籠修行の末、悟得した術について記されたもので、これを受け継いできた天台寺一派僧祇の道春と言う人が、昭和六年七月二十二日に同流師範杖術高山氏に授け、その副本を末永先生に呈すとあり、その内容は前書き・修行心得・兵糧丸作法・呪文・静観・用意・作法・第二となって居り、念力修行の方法が詳しく書かれて居ます。
この中の呪文は漢文調のもので「顕幽表裏、三霊魂神、神人萬有、邦土宇宙・…」とあり、一見、修験道或いは両部神道系のものに思われましたが、よく調べてみると明治時代に豊前の宇佐より川面凡児翁が出て復興された禊流の神道の中の産魂詞(むすびのことば)と言う祕言であり、読み方も音読みではなく、「カクレミトアラハニトウラオモテ、ミミタマカミ、カミモヒトモ、ヨロヅノモノモ・…」といった大和言葉の言霊(ことたま)でした。そして、この禊流に伝わっているヌサ捌きの祕事の内、憑依霊を解除する作法の中に神道夢想流杖・奥伝の「水月」と同じ動作があり、使うヌサの棒も女竹を使い、杖と同じ丸いものでした。
このことを先生にお話すると「それは面白い。君はそのことをもっと研究すると良いだろう」と.申され、平野三郎か誰かが、やはり憑霊者を九字を切って治したことを話されました。

そして『護身法九字十字之大事』と言う平野三郎に伝授された伝書のコピーを見せられ「これがわかるか」とおっしゃいました。
幸い、密教・修験道の基本的な呪法で、私も以前から修行して居た法でしたので早速、先生にお示ししますと大変喜ばれ、それ以来、金剛経の読誦に加えて『妙語之巻』の呪文の訓読みと護身法・九字を修して居られました。

また、こんなこともありました。

それは、先生が二十歳位の時、頭山満邸に出入りして居た諏訪の修験行者・原田某という人が、頭山邸にたまたま居合わせた先生の顔を観て「このままではあと一月も持たないぞ。私と一緒に来て治療しなさい」と言われたので、先生は肺を病んで療養中のこと、早速そのまま諏訪へついて行き、治療を受けられました。
その治療というもの煮え立った湯釜の中にタオルを入れ、そのタオルを素手で取出して絞り、そのまま胸と背中に当てると言うもので、修験行者の探湯(くがだち)の行から来たものでした。
そして食事はキャベツが主食で、それに野菜の煮たものだけ、それ以外は一切何も食べてはいけないと言うものでした。
それを約一月も続けると次第に体力がついてきて、毎日の散歩も余裕が出て来たので、原田某に一緒に滝行をするよう勧められ、滝行をされました。

その行は滝に打たれた後、一本歯の下駄を履いて山道を駈け下ったり、刀を逆さに持って素振りをしたり、刀を横に架けて素手で懸垂をしたりするもので、やはり修験行者の法術でした。
このお話を何度も先生からお聞きしていましたが、先生の百日精進の後、先生に「一度そこへ行ってみたいのですが」とお願いすると「もう五十年前のことだが、懐かしいから一度行ってみるか」と言うことになり、二人で諏訪へ行きました。
先生が前もって連絡をとった後、原田家に行ってみると、既に先生を治療した行者は他界し、治療所もなくなって居ました。
今の当主はその行者の兄上で、頭山満翁の尊崇者で一時は頭山邸に寄寓して居たこともあるとのことで、頭山翁のお話を伺ったり、頭山翁の書をいろいろ見せて頂きました

そして、例の滝へ行ってみたいとお願いして、諏訪市郊外の山寺へ案内して頂くと、五十年前先生が修行した滝は枯れ、ほんの一雫の水が流れて居るだけでした。
先生は大変がっかりされ五十年の歳月の移り変りをしみじみ感じると洩らされました。
私も出来れば滝行をしようと楽しみにして居ましたが、それも叶わずがっかりしていると、先生は往時の情景を思い返すようにここで何をした、あそこでこうした、この路を走ったと話され、またもう一度ここへ来て杖をしてみたいとも申されました。

この後、原田氏の案内で、同氏が指導している霧ケ峰のグライダー練習場に行ってみたのですが、先生はグライダーに大変詳しいので不思議に思ってお尋ねすると、実は若い頃、グライダーをして居たとのお話をうかがい驚いたことも思い出されます。

私にとって先生の最後のお教えは、昭和五十九年愛知県剣道・居合道・杖道高段者大会で演武の後「今日はよくできた、去年はザワザワしていた周りの雑音が今年は演武とともにシーンと静まった、観て居る人を魅きつけられたためだ、こうでなければならん」と申されたことでした。

その年の秋、熱田神宮の日本古武道大会での杖と神道流剣術の演武が先生との最後の稽古でしたが、その時の先生はまさに鬼気迫る迫力で、周りの時間が一瞬止まるかと思えるほどの気迫をもって打太刀をして頂きました。これが先生から私への「かたみわけ」となりました。
熱田神宮・日本古武道大会にて記念撮影 演武前の下稽古

亡くなる丁度一ケ月前、突然先生から電話を戴き「何でも良いから家に来い」と何か思い詰めたように申されるので、驚きながらもお伺いすると、いろいろなお話をニ・三時間され、食事が用意してあるから一緒にと勧められました。
奥様が用意された料理を先生とともに戴くと、味が全く無く、何度も奥様のおいしい料理を戴いて居る私は不思議に思い、怪訝そうにしていると、「これは糖尿病の食事だ、味がないだろ、たまにはこういうのもいいだろ」と申されましたが私は胸中、何かひっかかるものを感じて居ました。

それから一月後、昭和六十年五月九日午後三時十六分、神去られましたが、あの一月前に食事を勧められた時、既に先生は意識の奥底でこのことを予期しておられたのではなかろうかと思われてなりません。

今、先生のご恩に報いるには如何にすべきかを考える時、先師の跡を求めず、その求められた所を求めて進むことと自分なりに結論し、その求められた所は何か、それは清水隆次先生であり、夢想権之助勝吉流祖であり、飯篠山城守家直・神道流流祖であり、更に遡れば天地自然の道である日本神道に到るものと思います。
晩年、先生は西岡常夫師範と演武をされた 紘武館道場創立5周年記念の演武
(昭和55年3月20日)
先生没後、「若し、自分に何かあったら西岡に就け」とのご遺言を戴いて居りましたので、以後は西岡常夫師範にご教導を御願い致すこととなったのです。



◯本稿は、平成三年発行『愛杖』掲載文を修正・加筆したものです。





『 天真正伝神道夢想流 杖道求真 』 初刊のご案内


A5版103頁

定価 1944円

(送料込み)

平成27年9月1日発行

発行所  ブックウェイ

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は じ め に

私は、神道夢想流杖を、黒田藩杖術師範家の血筋であられる濱地光一師範に十七歳の時から学び、恩師のご逝去後、師のご遺志に従って、清水隆次師範門下の弟弟子であられた西岡常夫師範に就いて学ぶと云う、まことに有り難きご縁を戴いた。

そして、両師より〈生きた杖〉が遣える事が傳承者の使命であり、又、それを後世に伝える事が杖の中興の祖であられた清水隆次師範の悲願であったと承った。

その〈生きた杖〉の遣い手となる為、神道流剣術十二本・神道夢想流杖六十四本の形の示す、真の剣と杖を求めて稽古すること、今日に至って居る。

本書は、先師から賜わった教えを元に、これまで自分が修めた諸流派の教えも加味して、常日頃の稽古の際に私自身が心掛けて居ること、門人に重要な留意点として繰り返し指導して居ること、又、その時々に気付いたことなどをつれづれに書き留めた平成二十五年に於ける約十か月間の「稽古日誌」を、門人の希望に応じ纏め直したものである。

この小著がいささかでも読者の参考となれば幸いである。

                                                                       
神道夢想流杖 免許皆傳
皇武道塾 塾長
                     石 田 博 昭 盛 山


目次

はじめに
1、稽古とは訓練に非ず摺り込みである
2、稽古は真似ることから始まる
3、形稽古こそ自由自在となる稽古である
4、稽古と言うものは全て自己責任である
5、見取り稽古の大切さを知れ
6、馴れ・弛(だ)れ・崩れを避け真剣に稽古せよ
7、何事もその勝れたる処を学ぶべし
8、基本に勝る奥儀なし
9、十文字勝ちに勝る勝ち口なし
10、最初にして最後は打ち込みの稽古である
11、常に杖に隠れて技を行なうべし
12、〈太刀落〉の形に秘められた教え
13、〈アウン〉の悟りを技に生かす
14、実伝でなければ伝わらない〈生きた杖〉
15、正しい技は手の内次第
16、技の如何は足にあり足こそ技の要なり
17、生きるか死ぬかは太刀筋にあり
18、無限に変化する八相の構え
19、親の心を以て打太刀をせよ
20、見えねども気迫を養え形稽古
21、残心の大事
22、抜刀は唯抜くに非ず常に切る心を持て抜くと知れ
23、小太刀こそ無刀捕りへの下稽古
24、〈卜伝一の太刀〉の遣い方を知れ
25、繰り付けの技を見直せ
26、繰り放しは相手の右後ろに崩すべし
27、逆らわず、相手に和すこそ極意なり
28、常に三挫きを心がけて技を遣うべし
29、気合いとは言霊であるその音力を身に着けよ
30、目付けは何処にも居着かず全体を捉うるべし
31、〈飾り〉は神伝武術の證である
32、神道夢想流杖の本懐は〈生きた杖〉を遣うことにある
33、併伝武術に就いて
34、天真正伝への道
35、ひたすら心を鎮めるべし
36、武徳を求めて
むすび



以 上