江口英真翁略傳 ( 金鈴会教法 )




前 言

昭和六十二年十月、丸井天真氏が本会に来訪され、先師・江口英真翁の伝を伝えたいと述べられ、以後屡々来訪され、伝書と共にその伝を遺して行かれた。

その伝は大本教の出口王仁三郎氏とも関連があり、最初は聊か胡散臭いかとも思われたが、折角本会に伝えんと来られたからには、何か背後に神策りが有るやも知れずと思い、兎に角お受けしたのである。

確かに、その教学は一時、大本教の大幹部であられたこともあり、大本臭は拭えないものの、その奥にある神伝・神事は木曾の神仙から授けられたものであろうことは間違いなく、受けてみて更にそれを確信した次第で有る。

それは、『新生の神法』『虚空霊の氣吹』『神人の心得うべき言霊祕聞』など、吾が神祇伯太瓊傳の天津息吹の裏の伝と云える口伝も含み、又、禊流の伝とも交錯するものであった。

以上のことから、仮令、大本臭があっても必ずや、本会ばかりでなく世の為になる教伝であると確信しつつ、そのまま継承し、今日に至ったのである。

今、ここに江口英真翁の略伝を公開し、その人となりを紹介するのは、恐らく天界にて吾等を見守られて居る江口英真翁の霊引を受けた為と思われる。

以下、記す江口英真翁の略伝は、丸井天真氏の書かれたものをほぼそのまま活字化したものであり、聊か読みづらい点は了解戴きたいと思う。

石 田 盛 山


江口英真翁



江口英真翁略傳


明治二十一年(一八八八)二月節分の日に(戸籍上は明治二十一年六月五日)福岡県三潴郡荒木村大字荒木千七百十六番地(現在の久留米市荒木町)に江口文吾の二男として生る。(本名は義雄、後「宏」に改名、英真と号す。)

其后一家は明治二十四年四月十三日、三潴郡大善寺村大字宮木千百二十五番地(現在の久留米市大善寺町)へ分家して転住移籍する。

父、江口文吾(江口是助の五男として嘉永六年〈一八五三〉七月七日生れ、昭和二年〈一九二七〉八月十七日帰幽七十四歳)は乃木大将と共に明治十年の西南の役、台湾征伐、朝鮮・日清・日露に従軍し、日露戦争后、予備役となった。軍人当時の不滿で世を捨てたとも謂われてゐる。
姫路師団の旅団長時代に後の東條内閣の国務大臣安藤紀三郎は当時その部下であった。

父方は兄弟姉妹八人で百丁歩の田地を持ち、蔵も四棟程あったが、父が軍人で中学を卒業すれば学問はそれ以上する必要なしとの父の信念で、亦二男(義雄)を士官学校に進ませ軍人にさせたかったが母が強く反対した為に断念し、自分で苦労するならと兄弟に対して上級校への進学も上京をも許した。
此の為、師は大学時代、人力車夫等をして苦労する。

母。ユク(文久元年〈一八六一〉年二月十七日生れ、大正八年〈一九一九〉一月五日帰幽五十八歳)は同じく三潴郡荒木村大字荒木の士族中山元朴の長女にして明治十七年〈一八八四〉六月四日(二十三歳)文吾(三十一歳)に嫁ぎ来る。

母方は(伯父〈母の父の兄〉は)代々有馬家の学問の御用を勤め、亦母の父は有馬候の御典医でもあった。

その母の関係から師は日本の性相学の泰斗・石龍子の家に入り、石龍子の跡目を継嗣ぐ筈であった。

石龍子は五千冊の原書を一週間に数冊宛読み、医学・天文学を修め、弟子には有名な人物ばかりが居ったとのこと。

そのため師も亦中学時代から既にその一部を読まさせられたとのこと。

兄、江口堂太郎(明治十八年〈一八八五〉五月十五日生れ、昭和三十三年〈一九五八〉一月三十一日帰幽(七十三歳)は、八歳から小学校へ行き、大学卒業まで友人とも人とも爭ったことはなく、学校ではいつも一番で苦難に対しても平然たりきと。

有馬候の育英会から補助金を貰って勉強し、石龍子の家から東京帝国大学に通学した。

卒業后はドイツに留学し、ベルリン大学を優秀な成績にて卒業、帰国后は大学教授となり後、弁護士として活躍して法曹界に其名を成す。

師の本名は江口義雄、後(昭和三年八月二日許可に因り、戸籍上も)江口宏と改名せり。また英真と号す。

幼少の頃より靈眼靈耳開けあり、亦人に優れる。

小、中学を終えて高等学校に進みて中野正剛と知り合い肝胆相照らす仲となり生涯を通じての無二の親友となる。

また中野正剛は早稲田に入るも師は東京帝国大学に進みしが、其処で鳩山一郎及び緒方竹虎等と同期生となり、特に緒方竹虎とは其后の朝日新聞の記者生活を通じて無二の親友となる。

大学を出て新聞社に入り、特派記者として世界各地を周遊、帰国后間もなく新聞社を辞め、世界実地見聞の新智識を以て獨立して事業経営に乗り出す。時に三十歳頃なり。

先づ、芝浦自動車会社(外国自動車の輸入販売とその修理)を興して成功する。

次で宝製薬会社(ロシアより原料〈サントニン〉を輸入し当時日本国内に蔓延しつつありし回蟲駆除の特効薬〈駆蟲剤〉の製造販売)を創業して、これ亦多大の利潤を収めるに至る。

更に勢ひに乗じて、PCLと云う映画会社(東宝映画の前身にして多摩川畔にロケーションを所有)の株を買収して重役となり、その経営にも参画して、当時既に独身ながら百万長者の名を恣にする。

時に大正十一年三十四歳頃なり。(東京丸の内に在る三菱所有の二十四号館を借り切って前記三社の本社及び事務所に当てる。)

斯くして毎日晝は新橋、夜は赤坂で、◯◯◯◯の華麗なる生活が続いた。

然るに翌大正十二年の初春頃、或日の朝、出社して間もなく突然に神霊に依り霊縛を掛けられて連れ出され、木曽の山中に入る。

そして当初、山の入口にて出迎えられた神仙の指導の下に、爾來足掛け四年に亘る歳月を霊的修業のために神仙と共に山中にて過す。
最后に「審神の神法」の極意を授かりて下山を許される。

下山に当り一切を擲った身の振り方に就いて天を仰ぎて祈るに「大本教の出口王仁三郎を訪ねよ」との啓示を受ける。

早速、大本教本部に初めて出口王仁三郎を訪問せしに、出口聖師は一見するなり「ヤ!」と声を張り上げ「お前の來るのを待ってゐたぞ!」「三年遅かったな!」と申されたとのこと。時に大正十五年、三十八歳頃なり。

大本教団に入りては出口聖師の片腕となって大いに活躍する。

此の頃「原 敬首相の暗殺」を前日に於て既に東京駅に於ける現場を霊視させられ、同時に刺客(犯人)の「中山 艮」の名前をも靈耳にて聞かされたりと。
またこの時分、出口聖師より其名の「義雄」を「宏」と改名するよう奨められしならん。

昭和三年八月二日許可に因り戸籍上も正式に「江口 宏」と改名せり。

大本教団にては宣伝使として神教の宣布活動のため全国各地に於て講演会を開催し、講師として熱辯を振い、其の霊的体験談と共に聴衆を魅了して多大の感銘を興えると同時に、大本教団への入信者を倍増せしむるに至り、大いなる功績を顕わして遂に出口聖師より『江口はエイ口や、善い口(善言美詞の言霊が豊富でその活用がウマイこと)を持っとるな!』と称賛せられるに至ったと。

昭和五年、豫てより大本教団と提携する世界紅卍字会満州本部に人類愛善新聞の新聞記者として派遣せられ満州に渡る。

また同会の道院にても修業し、遂に扶?(フーチ・神示)に依りて世界紅卍字会の世界宣伝課長に任命せられる。

翌昭和六年九月十八日、満州事変勃発するや一旦帰国して聖師に諸報告を済し、翌昭和七年正月改めて『人類愛善会慰問使・人類愛善新聞特派記者』として再び渡満する。

当時五・一五事件后、陸軍の一部の者は満州に帝国を造らんと計図し事件の拡大となった。

然るに、満州人と雖も信念を持ち日本軍に反抗、益々鞏固にして容易に解決が着かなかった。

其間、本庄将軍は日々悩んでゐた。他の参謀たちも何とか早く解決せんと焦り気味であった。

師はこれに対して『宗教的解決』の方策を樹て、本庄将軍、板垣参謀等とも相談をなし、自らは身を挺して奉天城内の『紅卍字会』満州本部を訪ね、此の話を会長等にした処、始めの内は容易に納得しなかったが、『紅卍字会』は道院の『扶?』に依り直ちに師の提案を承諾し、神示なればと、他の各宗教的団体も協力する事になり、提案の実行に移った。(提案の内容とは即ち『日本軍は満州を帰属せしむる意を以て此の戦をなすに非ず、五族協和〈日、朝、支、蒙、ソ〉の精神に依り理想の国土を造らんが為なり』・・・と)

依而、各宗教及精神団体(いづれかに入会せざる者少し)を統合し、此の日本軍の精神を各地、各人に知らしむる為め、最も勢力を有する『紅卍字会』を承諾せしめ、次で各団体の名を連ねてパンフレットを発行することにした。
また各団体ともマークを付け『人類愛善会』『紅卍字会』のマークを付けてゐる者は日本軍も殺さなかったし、疑う事もしなかった』と云うことなり。)
之に依り解決し、満州皇帝即位の段取りとなった。

昭和八年皇帝の即位式に張海朋将軍と共に列席を許された新聞記者は、師が唯一人にて他は高位高官の者ばかりであったと。時に四十五歳なり。
満州事変の解決後帰国し、昭和神聖会の設立運動のため聖師と共に品川に駒を進め其片腕となって再び大活躍をなす。
昭和九年の或る日、昭和神聖会の発起人募集のために訪問せし安藤紀三郎氏宅にて同氏の長く苦しみし霊的病気(即ち関東軍司令官当時、新しく入手した軍刀で試し斬りをした馬賊の頭領の怨念による霊障)を其場にて鎮魂し、浮上した怨念の霊に生く言霊にて言向け和わし改心せしめて怨念を解消し、其の夜より同氏の病気が快癒して行ったと。

この時の縁が、後の東條内閣の国務大臣となりし同氏の紹介で東條首相に対し戦争終結促進の進言をなすに至る。(昭和神聖会は昭和九年七月二十二日創立する)

またこの頃の或る日、中野正剛、緒方竹虎等と三人で銀座の公詢社にて食事を共にせし時、中野正剛には剣難の相、緒方竹虎には短命の性相を観じとった師は、それぞれに注意を申上げたとのこと。

昭和十年の始め頃、出口聖師に秘かに呼ばれて教団の前途を打ち明かされ『お前はここ(大本教団)を離れて儂の代りとなって一人でも二人でも良い、誠の真人を養成する事に全力を打ち込んで欲しい。そのためにはもう二度と宗教化をするな・・・』また『・・・この事はすみ子(二代教主にして出口聖師の妻)にも云うな』との厳しい密命を帯びて教団を去る。時に四十七歳なり。

而してその后聖師は『江口はな、破門したからなー』と教団内外の幹部達に言い布らしたとのこと。

軈て(昭和十年十二月八日)第二次大本教団の大弾圧事件起り、幹部達を始め澤山の信者達までも逮捕や拘留置せられるに至ったが、聖師の『江口は破門したからなー』と云う宣伝のため弾圧より免れる。

翌昭和十一年三月海軍の好意ある招請に依り、大角海相の軍艦に報道記者として乗り組み(佐官待遇で)太平洋全域を巡航視察した。

それは既に約6年后の準備(太平洋戦争の)である事を同大将から聞いてゐたとのこと。

数か月后帰国して下艦し再び新聞記者として東京に在住する。

暫く平穏無事な生活が続いた。

處が昭和十二年頃の或る日『すぐに東京を離れよ』(それは大本事件で特高警察の内偵探査が益々厳しくなりたるため)との神示を受けたので、当惑し思案最中に四国の海南新聞の社長香川和男氏より『うちの編集長になって呉れないか』との要請に依り「渡りに舟」と早速引き受けて、四国松山に移住する。

爾来、晝間は新聞社の編集長として重大なる仕事を遂行すると共に、夜は毎夜の如く近くの天山に登り神示の任に々に隠れたる神業に励む。

斯くして、海南新聞は順調に発行部数が伸びて発展して行った。

昭和十三年四月頃、満井佐吉の要請に依り、その旅館(岡山の)を訪ね、同氏の病気のお取次をして快癒せしめ、其の夜のお医者さんばかり、二、三十名の集いで「神に就いて」の講演をして座談会に於いて「神と原子力」に就ての質問を受けた際、師は『自分は大学は法科出で科学のことは解らないので・・・』と断りをしようと思った瞬間、神懸りとなり『この火鉢の中の灰の一億分の一を更に一億分の一にした中に小宇宙があり・・・』と説き始め「原子核」や「陽電子」「陰電子」と云う言葉と共に終には「エレクトロン」やウラニウム」また「プルトニウム」と云ったような当時師が聞いたこともない外国語まで腹の底より飛び出して来て、巨大なエネルギーの発動を解り易く説明して神の霊、力、体、との関係を簡潔に解明せられて神霊は昇天せられたので、一同の者は神懸り状態に於ける師の発する言語と云い(言霊なり)その態度の犯すべからざる厳粛さに唯吃驚し、その明快なる解答と共に矢張り目に見えぬ神霊の実在を信ぜずには居られなくなったとのこと。師の五十歳の時なり。

尚、この満井佐吉と云う人は、陸軍大学を軍刀組(優等)で卒業し、後の東條首相の先輩格にして、陸軍としては一番に首相に推挙したき人物なりしも、二・二六事件の引責に依り予備役となり、当時衆議院議員として政界に活躍しありて、次期選挙運動のため中国方面を遊説に廻ってゐた處であった。

尚、同氏は、議会は神聖な場所であるとの信念から常に白衣、白足袋で議事堂に登院してゐたことで有名なり。

昭和十六年十一月下旬出社して間もなく、新聞社の専務と経営意見(専務は発行部数を更に増やさんとするに対し、師は地域人口の枠を越す増刷をしても無駄であるとの反対意見)の相違から激論となり、遂に師は即刻新聞社を辞めて帰宅せし處、『神が新聞社を辞めさせたのである。すぐ明日より城山に登り二週間の断食修行をせよ。満願下山の日には日本と米国とが開戦するようになる』との神命を受けたので『次の就職の目当が着くまで暫らく御猶予下さい』と申し上げんと思った瞬間、『身も魂も神に捧げたと言って置きながら今更何と云うことをいうのか、明日実行せよ』との厳しい神命であったので、即刻準備をして信者達と一行八人で登る。

登山途中病弱気味であった渡辺と云う若い女性が七・八合目でバッタリと倒れて意識不明に陥って終った。

山中にて施す術も無く緊急の事なれば、神に縋るより外なしと、師は直に天を仰ぎて祈り、「ん」の言霊を以て「うん〜」と宣り上げ神様をお呼び申し上げるに、忽ち艮の方角に白い雲の如き丸い玉(直径一尺程)が現れて、「うん〜」と宣る言霊の響に乗って飛来して、五米程前方に在りし大樹の幹に当ったと思う瞬間、忽ち一丈余尺(約五米前后)の大きな御神姿を顕現なされて、ノシッノシッと歩いて近づかれ、渡辺さんの身体を軽々と持ち上げ、左手にて抱かえた儘右手で全身を撫で擦するが如くせられて、臍の辺りより病霊を掴かみ抜き取りて投げ捨てられたのを見れば、青い火の玉であった。

そして更に、「ん」の言霊にて生命力を注入せられた時、渡辺さんはパッチリと目を開けて意識を取り戻し、忽ち元気を回復したので、その身体を再び師の手元に渡されて、再び元の大樹の方向にノシッノシッと数歩歩かれて、元の白い玉となるや瞬間に消え去って終ったとのこと。

また此の際『大事な神業にかかる病弱な者を連れて来るとは・・・』と叱られたとのこと。

尚、いつもなればかかる場合は、師の如き霊眼者にしかその御神姿を拝することが出来ないのですが、此の時にはこの奇跡的な光景を他の信者達全員にも肉眼で見せられたので、一同非常に感激して歓び勇んだとのこと。

かくて城山山上に於ける二週間の断食修行を終える十二月八日満願の朝、神示に依り城山の龍神を神界にお上げする神業を執り行うに龍神(白龍)は非常に喜ばれ『今日時機来って大神様のお許しと皆様方の御奉仕のお蔭で、只今より神界に昇ることが出来るようになり、こんな嬉しいことはない。そのお礼に私の出来ることで貴方方の御希望を叶えて上げたいから何なりと仰言って下さい』と云われるので、各自順番に願望を申上げてゐたが何番目かのものが『自分はつまらん人間だが・・・』と言いかけた處、その言葉を咄嗟に遮り、霊媒者を通じて龍神は『つまらん人間とは何と云う勿体ない事を仰言るのですか。私も人間としてヒト(霊止)に生まれたかった。唯因縁とその使命に依って龍神として顕界(この世)に出さ(生)れたのですが、ヒト(霊止)こそは大神様と等しきお働きが出来るのではないでしょうか・・・』と反対に諭される場面もあったとのこと。

これは神人合一して発する人(霊止)の生く言霊に依り、龍神を駆使して雨を降らし、風を起し雷霆をも叱咤することの出来る尊い人としての自覚が足りないからだと、師は教えられました。

城山の御神業も終り下山し畫頃山麓の百姓家に至り用意して貰ってあった重湯を啜り居る時に、ラヂオから流れ出る日米開戦の報を聴いて、一同の者は曩の神示の的確なるに驚嘆したとのこと。

帰宅して見るに新聞社を辞めたことを知らせてあった東京の実兄から、一袋の肥料が届けられてゐた。

『これにて当座の生計に充てよ。注文次第、一車でも二車でも送ってやる・・・』との手紙と共に。

信者の一人が、早速にその見本の袋を持って、農業組合を廻った處、忽ち貸車に一輌宛の注文が纏り、現品を納入して代金を送金しようとした処「こちらから指示ある迄そちらで代金を保管せよ」とのこと。

当時既に肥料が不足気味であった為、其の後も注文が増え続け、結構一財産を形成する程迄になった。

そのうちに、大東亜戦争も拡大して行き、若者や働き盛りの人達が招集兵や徴庸工等にとられて行き、人手不足のため売りに出された製材工場を買収することとなり、茲に於て再び本格的な事業経営に乗り出すこととなった。

即ち、製材の際に出る端切れ材(今迄捨ててゐたに等しいもの)を利用して、サンダル(師が大角海軍大将と共に太平洋を巡航した際、南洋諸島の土人たちが履いてゐたのを見てゐたからの考案で)を製作し、これを海軍に納入することにした。

これに依り、一層の利潤を上げることが出来た。

次で、和歌山県下で売りに出された広大な山林を三万円で買収して、原木の伐採から製材をしての販売と、更に端切れ材をも活用してのサンダルの製作と、それを海軍への納入販売等一貫作業に依り、再び巨萬の財を得るに至る。

然し、神示により、各自生活を充すに足る給料にして、残余を全部貯蓄することを実行せり。 

従業員の殆どが、師の教を受けし信者達同志であった。

昭和二十年、松山が大空襲で焼け野原となりし時、その貯金を直ちに引出して、従業員の被災者全員に頒け興えしため、松山で一番早く信者達が家を建て復興したとのこと。(尚、又終戦と同時に、残りの全貯蓄分を引出して、従業員に配分して終ったとのこと)

昭和二十年八月十五日終戦となり、軈て大本教団の大弾圧からも解放され、聖師様と自由にお会い出来るようになるや、師は一番に聖師を訪ねた。

隔絶してゐた長い間の御神業に就て報告をしたる処、聖師様は悉くそれ等を既に知って居られた。

そして屡々、御面会するうちに、これからの大切な仕組に就て逐次お話をせられて行った。

即ち、綾部と神戸の仕組が成就しなければ、瑞霊の天馳り国馳りの天馬の御神業は地上には移寫して来ない・・・と。

お筆先にも『綾部、神戸の機の仕組も出来上り』と明かにありますが、過去に於て神戸の仕組に奉仕したる者なく、そこで聖師は『鳴門、真奈井、伊吹山、富士、東京、そして最后の神戸』の仕組に就て、御面会の度び毎に詳細に口述された。

そして、それ等の神業の遂行を師に依託されてから『ここ(教団の中)には一人も真の信仰の者は居ない・・・』とまで極言されて、世の立替立直しに関する秘法、生く言霊の秘法、また宗教化(組織化)した場合に間違いを生ずる原因等を物語られ重ねて『神戸の仕組は重大なる神業の滅亡することをその根、幹までも腐敗堕落する迄に喰い止むるに在り、大切なる仕組である』と強調せられた。

それから数回后の御面会の折『お前はもう此処に来るな・・・』と厳命せられたのが最后のお言葉となり、その翌年二十三年一月十九日聖師様は昇天せられたり。
爾来、師は聖師の負託に應え奉るべく神命の任に々に転々と居所を移し乍らも主として神界と人間界との結びの為の隠れたる裏神業に専従する事となり、終戦後の物資不足の不自由な中に在って只管大神への奉仕の為に人に知られざる苦難の道を唯独り歩まれたり。

また、其の間に在りても東京の御神業として天皇陛下に対して数回に亘り『真神』に就ての御進講を奉仕せり。

鳴門の神業=昭和二十三年愛媛県西條市より徳島県鳴門市に移住して奉仕する。

無人島に渡り、一週間の断食修行をなして、其処に棲む世界一大きい鳴門の竜神へ言向け和し、爾後改心帰順せしむる迄に約三年間に亘る神業を続けり。(昭和二十六年頃迄)

真奈井(琵琶湖)の神業=昭和二十七年頃、滋賀県に移住して奉仕するも内容は詳らかならず。(真奈井の龍神、竹生島の御用ならん)

伊吹山の神業=昭和二十八年厳冬積雪深き伊吹山頂上に於て、神界最后の神廷会議に人間界を代表して唯一人参列する。

厳寒なれども、毛織物の着用は一切許されず。肌着に至るまで白の木綿物にして、白衣、白足袋、白緒下駄にて登る。

然し、山麓より登りかけるや、すぐに、身も心も軽やかに温かくなり、積雪の上を歩くも下駄の歯型がすぐ消えて行き、恰も雲の上を歩くが如き心地せりと。

また山頂に至れば一点の雲もなく晴れ渡り、風も無ければ寒さも感ぜず、身もホコホコと温く一面の銀世界は現界の世のものとも思われざる美しき光景にして、春暖の心地さえ覚えたりと。

此の時は、全世界の国魂の神を始め、お附添ひの神々も数多列席せられあり。更に多くの龍神たちは、全山を取り囲むが如く厳重に警護しありきと。
また、明治天皇の御霊姿も拝せしが、ズット下座に方に御参列あらせられてゐたとのこと。

やがて、厳瑞二霊の主神をお迎えして会議が始まった。

伊吹山の神業后、遂に『神戸に行け』との神命を受けて、昭和二十九年 月頃神戸に移り住む。

神戸の神業=としては、先づ摩耶山及び六甲山頂に蟠る八岐大蛇(幕末維新頃、始めて外国船が神戸に入港せし時、船員と共に上陸して六甲山脈に巣喰ってゐたと云う)の退治(生く言霊を以て言向け和わし改心帰順せしむる)と。

その残党(眷属)に至るまでの言向け合せの為め、夜な夜な(白龍に打跨って)六甲山上に至り、夜明けと共に帰る神業を続けられました。

次で「神戸(カウベ・カムベ)」と云うは所謂「神の戸、即ち岩戸開きをする格好の地場(ぢば)」としての神命の任に任に『真神の活動機関、地上天国建設運動団体・金鈴会』を創始するに至り、その本部を神戸市須磨区大手町一丁目八番地に設置して、茲に於て人間界への最后の宣布活動を開始せられたり。

時に昭和三十年、師の六十七歳の頃なり。

其處で「金鈴会教法」を始め数々の「金鈴荘文庫」約五十餘巻に上る著作(いづれも原稿紙に書かれたものを信者達に回覧して各自が筆写した)、また其后、毎月発行の「金鈴」誌にも短文ながら神意の存する所を自らの数々の体験を通してその急所、信仰の極意、教えの真髄等を平易簡潔、明解なる直截的文章化を以て掲載せられ、流石に直観の鋭い優秀な新聞記者であったとの片鱗を窺知せしむるものがあります。

尚、終戦直後の東久邇内閣の組閣に当り、師に文部大臣としての入閣を乞われたが、此の時はすぐにお断り申上げたなれど其后、緒方竹虎氏が副首相となり組閣する際に同じく文部大臣として入閣を要請をせられた時は、親友の誼としても引受けなければ・・と思った瞬間『悪の世の大臣になって何が良い処があるのか、汝には汝の大切な使命があるではないか・・・』との強い叱責の神示を受けたので、早速お断り申上げたとのこと。

また、昭和二十五年五月頃、安藤紀三郎元内務大臣及び東久邇公より「是非東京へ・・」との移住要請を受けたるも、これも神示に依りお断り申上げる。
昭和二十八年七月頃の或日、御神前にて禮拜の折、瑞霊現れ出て、山下奉文の霊を連れて來られ、軍人としてまことを盡されたが、終戦后、比島で刑場の露と消える、その憤懣やる方なき念ひを聴いてやれ・・・と大将の作られた最后の詩(別紙)を神懸りとなり書かされて、神示の儘それを百枚清書して当時の内閣の高官を始め、衆参両議院及び因縁の人達に郵送された。
昭和三十二年四月頃、元蒙古王とまで呼ばれた笹目恒雄氏(当時五十余歳)と共に、神示に依り熊野の那智の瀧にて二週間の断食行と共に瀧に打たれる潔斎の荒行を完遂せり。

これは、源平時代の昔、(横變慕した人妻を誤って斬殺して終い、痛く懺悔して改心)武士より出家、佛門に帰依した豪僧の瀧の荒行以来、第二番目の荒行の完遂なり、との神示を受ける。(六十九歳)

(尚、此の笹目恒雄氏は、大本弾圧前、出口聖師より託された霊石を崑崙山頂に埋没する大役を果された方にして、その際の「鶴仙に乗りて」の著者なり。

同氏は、前年の昭和三十一年十二月ソ聯より抑留者引揚げの最終船で舞鶴に上陸したが、東京の自宅には帰らずその足で綾部に行き、本宮山にて祈りしに「神戸に居る江口宏を訪ねよ」との啓示を受けて尋ね來りし為、御神意を伺いし処、前記の熊野那智の瀧の荒行となりたり。

同氏は現在(武蔵御嶽神社の奥の院より更に奥の大岳山頂近くに山荘を作り、仙人の如き生活を送り居り)生存中。

昭和三十七・八年五月頃、東京の神業にて上京、有川廣氏邸にて宿泊の際、皇太子殿下より突然に非公式の面会を申込まれたので、直に神示を受け、第一ホテルにて部屋を取り御面会する。

御下問の「日本の将来」に就て御神意をお伺いしてその儘お伝えすると共に、他に就ても御回答申上げたとのこと。

昭和四十一年八月十五日残されてゐた富士の御神業を金鈴会の信徒達と共に登山して奉仕する。時に七十八歳なり。

これにて出口聖師より負託されし六ツの神業即ち『鳴門→真奈井→伊吹山→東京→神戸→富士』の神業を悉く果されたり。

昭和四十三年正月二日例年の如く新年祭を執行され、祭祀后いつもの如く元氣良く張りのある声音にて御講話されて後、皆と一緒に楽しく新年の直会を済ましたのですが、それが最后になるとは誰も夢にも思ひませんでした。

四日后、昭和四十三年一月六日午后四時頃眠るが如くに昇天せり。享年八十歳なり。

一生を神に捧げて悔いも無し
 弥勒の御世の神となるな里。

うたかたの人の命は短くも
 神人合一すれば永久に生く。

晩年の江口英真翁
江口英真翁の書

「近地上天国矣」

日出神 英真



文字通り神人合一の境地に立ちて一生を神に捧げた師は今や神霊(カミ)となって天翔り国翔りの大活躍をされて居り、異国の扶?にも「江口佛師」として現われるに至り、また私達にも神界より種々な方法(霊視・霊言・霊夢・其の他、内流)等に依って指導を続けて下さり、今も励まされて居ます。

(文責・丸井天真 謹記)



江口英真翁 御著書(金鈴荘文庫 その他原稿)

◯神者宇宙活動力の本源
◯真神と信仰の基礎
◯神生の神法(祕)
◯神示の九十二外道・六師外道
◯祝詞解(天津祝詞の部)
◯ 〃 (神言の部)
◯霊界物語 五巻 五冊
◯神とは  二巻 二冊
◯信仰の要訣樹
◯業とめぐり(神話集)
◯安藤紀三郎と私 三巻 三冊
◯自己の永遠性
◯鎮魂帰神の神法(祕)
◯霊界は相対性原理(厳密)
◯神の声は轟く
◯人の向上過程(地獄から天国え)
◯真宗教と偽宗教
◯言霊とは如何
◯如是我問(名古屋版)
◯伊都能賣御神体拝受祭記念講話
◯神人の心得べき言霊秘聞(祕)
◯国祖の出現・神剣の発動
◯水火神伝と一厘の秘密
◯大神の神示
以上の外「金鈴」誌上に投稿せる短文あり。(毎号一〜二章)
毎月例祭后の御講話をテープにて収録せるものあり。
殊に師自らテープに吹き込みし極祕「神人祕軸」は未だ発表を許されず。
◯信仰の極致(祕)
◯初信者えの手紙
◯信仰の要諦と奥儀
◯現界之則霊界大混乱時代 二巻 二冊
◯山上の垂訓   二巻 二冊
◯兄の重態と御神意 三巻 三冊
◯熊野修業    二巻 二冊
◯禍福の問題
◯神示「?と氣」
◯道の栞     四巻 六冊
◯みろくの世は近きにあり
◯霊は一路 向上を辿る
◯人は神と獣の中間に立つ
◯「光」
◯黄金の光(祕)
◯虚空霊の活動と宗教の統一

手書きで記された伝書
『金鈴会教法』伝書
印刷された伝書
『新生の神法』の為の伝書



以上の如き著述書や毎月例祭后の御講話を収録せる一部のテープあれども、師は最后に『皆さん方に知らすべき事柄はすべてお知らせした。あとは唯貴方がたの実行あるのみである』と。





以下に、江口英真翁の小論を紹介する。


至 信

神の召命を承けて道を説く者にして世俗に歓迎せられ、時代の寵児となる者は極めて稀れである。

神に背向ける世に在って、神の道を説く者、誰れか殉教者たらざらんやである。

信に生きて正義を戦い、愛に中して慈悲を行じ、三世を達観して現世汚濁の中に居て独り染まず、且つ天使としての清らかさを堅持し、世の光となって闇黒と闘い、地の塩となって腐敗を止むるの勇敢且つ至信が必要であると思う。
(江口英真先聖誌す)
右の一文を誌した紙片に接し師の信念とその歩まれし生涯が髣髴としてきます。



言霊に就て(神示)

人のしがない舌先に転ばすものは言葉であって、言霊と申すものではない。

言葉と云うものは、神の御目より見給えば、紙より薄く地の上を漂い包む空氣と云うものを震わすを云うなり。

言霊戦などと申しても、真空帯や海の底、地の中にして如何に言葉を吐くなりや。

言霊と言うのは声ではない、また文字でもない。

言葉は思ひを人々に伝える具なり。

さればこそ、神のコトバと云うものは、神霊の意志に外ならず。

聖書にある「天地の初めに言葉あり」と云うことは、宇宙の意志が太初より嚴として在りしを申すなり。

宇宙の意志と云うのは今も今、不易不変の理想もて、今後も何千萬歳の未来の果ての果てまでも貫き透る命綱である。

これを人世に譬ふれば、言霊戦と申すのも当らぬことはなかりけり。

されどこれは根本的な思ひ違いと覚るべし。

実に言霊は神の意志、移寫と結びと響もの神の霊体発動し微塵の狂いなき運行をなさしめ統ぶる髄の華、移寫と結びと響きとのその深奥に秘められし宇宙の意志のあるところ、主神のスこそいや高き紫微天界と申すなり。

紫微天界は主の神の神々の上に比類なき崇高を保ち坐しませる、その理の鍵にして主神の霊と体の上に神々の明知も計り知れざるスのスを成せる紫微天界、妙なる極み光熱の至高至純の対極の発し給へるものをこそ是れ言霊とこそ申すなり。

霊止はされども小宇宙、宇宙の形に擬えて、神の創りしものなれば、霊止の真心凝る時に発する意志の音声は、大小高下の違いあれ、霊体以ては解き難き、いとも霊妙の働きをなす事もあり、更にまた神懸りしと書かせたる音をたどりて解くなれば、いとも神秘の深刻を打ち見ることもあるなりき、されどかかるは神定の霊止に限りて許されし事にてあれば他の人の、みだりに踏み入る道ならず。

如何に神秘を知るとても御霊の幸ひは願えまじ。

まこと言霊の尊厳を知りてしあれば事足りぬ。

宇宙の意志とは「智情意」の意志にあらず。

人間に於ては心と霊とは殆ど一つのもので想念界即ち霊界である。

智情意の心の作用は結局、霊魂の働きで霊魂の一部をなしてゐる意志である。

宇宙の意志は、宇宙の物質を体とし、宇宙の運行の法則である。

移寫の結び、ひびきを霊とする主神の霊体の外に存する原動力を意志と云う。

ス神の霊体のみでも宇宙は運行するが、それは唯、機械の如く動くだけで理想と云うものが
無い。

理想はスのスである。

紫微天界の源動力である。

至高至純の光と熱とでも譬ふべきものが常に一貫してもってゐる、これに依り宇宙全体は始めて目的と発展をなし得るのである。

斯くの如き主神の完成なる象は相異なる三つのものより成ってゐる。

三つと云う数を主神の象としてス神に繋がる総ての事に三と云う数の現われる理なり。

(昭和三七・七・七)(「大神の神示」より)





以上、丸井天真氏の纏められた江口英真翁の略伝を紹介したが、その教学は大本臭はあるものの、その神伝は禊流や神祇伯傳と共通するものも多く、その神髄は正真の神道を伝えるものであると思われるので、ここに紹介したものである。




最後に、丸井天真氏から口授された江口英真翁にまつわる聞き書きを些か記すこととする。

江口英真翁が霊縛された時の状況であるが、翁がある朝会社に行き、米国から届いたばかりの葉巻を喫う為と火を付けようとして居る時、突然、目に見えない何者かが四・五人、自分を拉致しようとして居るのに気付き逃れようとしたが、身動きすることも出来ず、又、声を出すことも出来ず、其の儘上野駅まで連行され、中央線の列車に乗せられてしまった。

翁は、自分はこれからどうなるのか、どこへ連れて行かれるのか、自分を拉致した目に見えない者は何者なのか、又、折角米国から取り寄せた葉巻が喫えない残念さなど、不安を抱きつつもなすすべも無く車窓を眺めるのみであった。

やがて、木曽山中の駅(駅名は不明)に降り立ち、歩くこと暫し、ある山中に連れて行かれると、向こうから白装束の老人が出迎え「よくいらっしゃいました。貴方には使命がありますから、これから四年間修行して戴きます」との言葉に、翁は「ここまで来たからにはやるしかない」と肚を決め、修行の道に入られたとのことである。

その修行の第一は、先ず食料の調達である。

とは言っても、俗人の如き食料ではなく、木食である。

木食とは、肉・魚・鳥はもとより米・麦などの穀物も取らず、植物・木の実のみを、火を使わないでそのまま食する方法で、素食法の究極の法である。

その為には先ず、食べられるものと食べられないものとの見分けることから始まる。

植物にはそれぞれの気がある。

その気の中で「ホド」と云う気を見分けることで、食べられるか食べられないかの区別が着くので、この修行から始まったとのことである。
次に、新生の神法、真空定(オヒ)の氣吹の修行である。

これは、オの神言の力で自身の周囲の場を結界し、続いてンの神言に依り自身の身魂を煉り上げるもので、我が神祇伯太瓊傳の裏氣吹に通ずるものである。
その他、滝行や断食、山中での荒行を続け、最後に鎮魂帰神の神法に入られたとのことである。

それは、調息・鎮魂し神々と交流するばかりではなく、狐狸や蛇などの霊も憑依させられ、それにどう対処するかと云った飯綱使いの様な術も修行させられ、全ての神法を修めた後、「時が来た。これ以後は神の仰せのままに生きなさい」と云って下山させられたのである。

それ以後、神の啓示のままに世の為、人の為に奔走されたのである。

翁が熊野での修行の折に出会われた方に、イワセ仙人と云う方が居る。

この仙人は齢二千五百歳と云うのに三十歳位にしか見えず、死化(しけ)の法に達して居るので必要でない人間の前には姿を現さず、必要な神人には姿を現して話をし、又、聞こうともするとのことで、これは丹田に黄金の光の霊を持って居るから出来るとのことである。

このイワセ仙人の生活様式は、普通の人間とは全く変って居て、食事と云っても木の実や果物を手に取り、その匂いを嗅ぐ如く、その上で息を吸うのみで気を吸い取り、それのみで生きて居る。

たまに、魚の気を取りたい時は、海中に向かって「エイーッ」と気合を掛けると魚が跳ね上がってイワセ仙人の両手の上に飛び乗り跳ねるのを、仙人がスーッと気を吸うと魚はグッタリと死んだ様になるが、仙人が海の中に放り投げると暫くして、ピチピチと元通りに泳ぎ出し、帰って行ったと云うことである。

翁はこのイワセ仙人とも親しく交し、仙界の様子をいろいろ聞かれたとのことであるが、翁にイワセ仙人を引き合わせた人物の話もある。

この人は、江戸時代に生れ、仙人になりたくて熊野まで来たが、行き倒れとなった処をイワセ仙人に助けられ、病気治しの祕法を授けられて世の人々の病気治しをして居たと云う。


以上、少しばかりではあるが、江口英真翁にまつわる話を追記して、この略伝の結びとする。

                                    完


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